IE9ピン留め

直毘靈、抄録  

 『文章報國とは予の天職である』と、蘇峰徳富猪一郎翁は云つた。
 固より野生の文章なぞ、如何に思案を重ねたとて報國といふ域には至らない。
 されど、決してこれを卑下するものでない。國に報いらむとするの意氣込みだけは野生にも、ある。一寸の蟲にも五分の魂だ。内容では翁の見識や學究にとほく及ばずとも、せめて姿勢だけはとほく及ばぬなどと云つてはいけない。

 とは云へ、日乘も更新が滯りがち。
 そんな折、先日、木川選手から、「腱鞘炎知らず」を戴いた。尻を叩かれる思ひだ。
 彼はよい男だ。このタイミングでこの臺詞を云うては、いかにも、といふ感じだが。笑止。
 日乘は止まつてゐたが、彼から頂戴した「腱鞘炎知らず」に申し譯なく、こゝ數日、機關紙の執筆作業に餘念がない。
 はて。日乘停滯の言ひ譯も藪蛇であつたか・・・・。なにせ機關紙は一號分まるゝゝ遲れてゐる。もう五ケ月も滯つてゐることになるのだ。冒頭の文句の意氣込み云々は、まるで空々しくなつてしまつたな・・・・。


 さて、野生の空しいひとり突つ込みはこゝまでとして。・・・昨日、お笑ひ觀たから、つい、ね。

 前囘廿四日は、先人の抗議に就て、一例を記したつもりだ。
 今日は、何故に、國賊・・・でもない、にはか反日がかうも多く存在するのか。それに就て先人の文章より考へてみることにする。(一應、廿三日の記事から繋がつてゐるつもり)



●本居宣長大人『直毘靈』(文政八年)に曰く、
皇大御國ハ、掛まくも可畏き 神祖天照大御神の御生坐せる大御國にして[萬ノ國に勝れたる所由ハ先づこゝにいちじるし。國といふ國に此ノ大御神の大御徳かゞぶらぬ國有らむや]』と。


仝、『古への大御世には道といふ言擧もさらになかりき[故古語に、あしはらの水穗の國ハ、神ながら言擧せぬ國と云り]其はたゞ物にゆく道こそ有りけれ。[美知(みち)とは、古事記に味御路と書る如く山路野路などの路に、御てふ言を添たるにて、たゞ物にゆく路ぞ。これをおきては上つ代に道といふものはなかりぞかし]物のことわりあるべきすべ。萬の教へごとをしも、何の道くれの道といふことは、異國(あだしくに)のさだなり[異國は天照大御神の御國にあらざるが故に、定まれる主(きみ)なくして、狹蠅なす神、ところを得て、あらぶるによりて、人心あしく、ならはしみだりがはしくして、國をし取りつれば賤しき奴(やつこ)も、たちまち君ともなれば、上とある人ハ、下なる人に奪ハれじとかまへ、下なるは上のひまをうかゞひてうばゝむとはかりて、かたみに仇(あた)みつゝ、古より國治まりがたくなも有りける。其が中に、威力(いきほひ)あり智(さと)り深くて、人をなづけ、人の國男奪ひ取て、又、人にうばゝるまじき事量(ことばかり)をよくして、しばし國をよく治めて後の法ともなしたる人を、もろこしには聖人とそ云ふなる]

『そもゝゝ天地のことわりはしも、すべて神の御所爲(みしわざ)にして、いともゝゝゝ妙に奇(くす)しく、靈(あや)しき物にしあれば、さらに人のかぎりある智(さとり)もては測りがたきわざるを、いかでか、よくきはめつくして知ることのあらむ。然るに聖人のいへる言をば、何ごともたゞ理(ことわり)の至極(きはみ)と、信たふとみ居るこそ、いと愚(おろか)なれ

『されば聖人の道ハ、國を治めむために作りて、かへりて國を乱すたねともなる物ぞ。すべて何わざも大らかにして事足(たり)ぬることは、さてあるこそよけれ。故(かれ)皇國の古へは、さる言痛き(こちた-き=うるさき)教へも何もなかりしかど、下が下までみだるゝことなく、天の下は隱(おだひ)に治りて、天津日嗣いや遠長に傳はり來坐(きませ)り。されば、かの異國の名にならひていはゞ、是れぞ上もなき優たる大き道にして、實は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。そを、ことゞゝしくいふあぐると、然らぬとのけぢめを思へ。言擧せずとは、あだし國のごと、こちたく言立つることなきを云ふなり。 ~中略~ たとへば猿どもの人を見て、毛なきぞとわらふを、人の恥て、おのれも毛はある物をといひて、こまかなるをしひて求(もとめ)出て見せて、あらそふが如し。毛ハ無きが貴きをえしらぬ。癡人(しれもの)のしわざにあらずや

『漢國(もろこし)などは、道てふことはあれども、道はなきが故に、もとよりみだりなるが、世々にますゝゝ乱れみだれて、終には傍(かたへ)の國人に、國はことゞゝくうばはれはてぬ。其は夷狄といひて卑めつゝ、人のごともおもへらざりしものなれども、いきほひつよくして、うばひ取りつれば、せむすべなく天子といひて、仰ぎ居るなるは、いともいともあさましき有樣ならずや』

神の道と申す名は、書記の石村池邊宮(※用明帝の朝、也)の御卷に、始めて見えたり。されど其は只、神をいつき祭りたまふことをさして云へるなり。さて難波長柄宮(※孝徳天皇の朝、也)の御卷に、惟神者謂隨神道亦自有神道也(※かむながらの道とは、神の道に隨ひたまひて、また自ら神の道に有るを謂ふなり)とあるぞ。まさしく皇國の道を廣くさしていへる始めなりける。さて其由は、上に引きていへるが如くなれば、其の道といひて、ことなる行ひのあるにあらず、さればたゞ神をいつき祭り給ふことをいはむも、いひもてゆけば一つむねにあたれり

『いにしへの大御代には、しもがしもまで、たゞ天皇の大御心を心として[天皇の所思看(おもほしめす)御心のまにゝゝ奉仕(つかへまつり)て己が私心はつゆなかりき]、ひたぶるに大命をかしこみ、うやひ、まつろひて、おほみうつくしみの御蔭にかくろひて、おのもゝゝゝ祖神を齋祭(いつきまつり)つゝ[天皇の大御皇祖神の御前を拜祭(いつきまつり)坐すがごとく、臣連八十伴緒(おみむらじやそとものを)天の下の百姓(おほみたから)に至るまで、各祖神を祭るハ常にて、又、天皇の、朝廷(みかど)のため天ノ下のために、天神國神諸(もろゝゝ)をも祭り坐すが如く、下なる人どもゝ、事にふれてハ福(さち)を求むと、善(よき)神にこひねぎ、禍をのがれむと、惡(あしき)神をも和め祭り、又、たまゝゝ身に罪穢れもあれば、祓清むるなどみな人の情(こゝろ)にして]、かならず有るべきわざなり。然るを、心だにまことの道にかなひなば、など云ふめるすぢは、佛の教へ儒の見(こゝろ)にこそ、さることあらめ、神の道には甚(いた)くそむけり。~中略~ されば神は、理の當不(あたりあたらぬ)をもて、思ひはかるべきものにあらず。たゞその御怒を畏みて、ひたぶるにいつきまつるべきなり。されば祭るにも、そのこゝろばへ有りて、いかにも其神の歡喜(よろこ)び坐すべきわざをなも爲(す)べき。そは、まづ萬を齋忌清まはりて、穢惡あらせず、堪(たへ)たる限り美好物(うまきもの)多に獻(たてまつ)り、或は琴ひき笛ふき歌■(人偏+舞=ま)ひなど、おもしろきわざをして祭る、これみな神代の例にして、古の道なり

『然るを中ごろの世のみだれに、此の道に背きて、畏くも大朝廷に射向ひて、天皇尊をなやまし奉れりし、北條義時泰時、又、足利尊氏などが如きは、あなかしこ、天照大御神の大御蔭をもおもひはからざる、穢惡(きたな)き賊奴どもなりけるに、禍津日神の心はあやしき物にて、世の人のなびき從ひて、子孫(うみのこ)の末まで、しばらく榮え居りしことよ。抑、此の世を御照し坐します天津日神をば、必ずたふとみ奉るべきことを知れども、天皇を必ず畏こみ奉るべきことをば、知らぬ奴もよにありけるは、漢籍意(からぶみごゝろ)にまどひて、彼國のみだりなる風俗を、かしこきことにおもひて、正しき皇國の道をえ知らず、今世を照しまします天津日神、則ち天照大御神にましますことを信(うけ)ず、今の天皇すなはち天照大御神の御子に坐しますことを忘れたるにこそ』


 大人は、當時、國内を瀰漫してゐた漢意(からごゝろ)を取り祓はむと、皇國の眞姿を説く。
 而して、それは、啻に日本が他國に比して優秀であり、他國を劣等視するものではない。天照大御神の大御徳は、萬國萬民、禽獣蟲魚草木土塊有形無形すべてに齎せられることを云ふ。決して耶蘇教や佛教にみられるやうな狹量な且つ高慢な考へ方ではない。
 抑も『直毘靈』は、大著『古事記傳』一之卷に記されたもの。古事記傳を讀むに當つての、簡單に云へば心得とも申す可き乎。だが今日、その意は措く。
 今日、學校で、人間の祖先は猿である、と教へられる我々には、鈴屋大人の玉文はまつたく妄想狂のごとく思へてならないであらう。今にいふ、保守派なるも愛國者なるも、權利思想に犯されし者少くなく、日本の眞姿を近代、或いは皮相を以て諒解せんとする。左なる次第であるから、鈴屋大人のごとき日本の説明がついぞ聞かれなくなり久しくあることは、まことに日本の爲めに殘念と云はざるを得ぬ。
 餘談となるが、それは戰後教育の弊害と簡單に云ひ切れるものではない。佛意、漢意の拂拭によつて推進乃至達成されたはずの明治維新であつたが、時日措かずして、新たな招かざる客、西歐文化、洋意が襲來した。三百年のヒキコモリから轉じて諸國の交際を專らとした新政府は、武力の多寡が壓倒的に外交の要であることを認識する。近代軍備を充足する爲めに物資、技術、學問の輸入に急いだことは、或いは仕方が無かつたのかもしれない。だが、技術に進み産業に富む彼れら西洋に追ひ付け追ひ越せの國是は、知らず識らず上下にわたる國民人心に西洋崇拜の念を併せ持つやうになり、耶蘇教解禁にも至つた。
 西洋哲學、思想の流入は齒止めが聞かず、加之、おほいに之を歡迎した。科學やデモクラシーを金科玉條の如く盲信し、それは今日も省みられない。
 とは云へ、世界的に行き詰りを呈してゐる今日、樣々な分野に亙つての見直しが索められつゝある。若しも今日、鈴屋大人がをられたとしたならば、現代の有樣を如何にみるであらう。大人による、皇國の眞相を闡明せんとするの試みは、日本が諸國に率先して近代の閉塞を打開を可能するべく一助となるかも知れないと考へることは、飛躍のし過ぎといふものか。
 いづれにせよ、次代に要される可きは全くでないとするも、軍備が第一でもあるまい。昨日の指導者が、必ずしも明日の指導者でなければならぬ理由は無い。西歐霸權の時代は、瓦解せんとしてゐる。

 ともかく、日本が嫌ひな反日の日本人も、日本をよく識らないで濟まさんとする日本人も、まづ好き嫌ひを口にする前に、もう一度、日教組教育を疑ひ、自分自身の手で、日本を調べてみてからでも遲くはあるまい。案外、新しい發見の少くないことを識ることが出來ると思ふ。

 又た、漢籍は外來ものと云つて、食はず嫌ひな人達へも、鈴屋大人はかう教へ諭してゐる。
『直毘靈』に曰く、
『但し古き書は、みな漢文にうつして書きたれば、彼の國のことも一わたりは知りてあるべく、文字のことなど知らむためには、漢籍をも、いとまあらば學ぶつべし。皇國魂の定まりて、たゞよはぬうへにては害はなきものぞ』と。

↑↑↑↑ 『直毘靈』と『腱鞘炎しらず』。



(注)抄録は「直毘靈」本文の順序に非ず。振假名は本文マヽ。※は野生による。






# by sousiu | 2012-02-02 14:18 | 先哲寶文 | Trackback | Comments(0)

西野文太郎烈士  

 西野文太郎といふ人があつた。
 長州藩士であつた西野義一氏の長男。慶應元年の生まれだ。
 肉體的には貧弱そのものゝ彼れは、一方では片意地なところが多分にあつたとか。
 友人から、膽力家、勤皇家と云はれると、得意になつた、と傳へられてゐる。(參考文獻、『大事件祕録』昭和十二年十一月廿七日「錦正社」發行)

 明治廿二年二月十一日の午前八時頃、時の文部大臣、森有禮が大臣官邸に於て暗殺された。
 刺客は、廿五歳の西野文太郎氏であつた。西野氏はその場に居合せた文部七等屬、座田重秀の仕込杖による三太刀を受け、漸く首の皮一枚を殘し、絶命した。

 森有禮は極端な歐化主義者だ。慶應元年、十六歳の時、藩主島津公の命を受けて倫敦に留學。その後、米國にも渡航。耶蘇教にも強い關心を抱くやうになり、而、日本人を未開と蔑した。明治十九年十二月、文相になり各縣を巡視、學校に招かれて訓話するに曰く、『日本人は、人に對して敬禮するのに、二度も三度も、頭の地に付くほど馬鹿叮嚀な敬禮をするが、頭を餘計下げる竸走をしてゐたら際限がない。あゝ云ふ時間潰しの虚禮を廢して、唯一囘だけ輕く下げる位にした方がよい。大體文明人はあゝ云ふ敬禮の仕方はしないもので、これから外國と交際するには、日本の未開な風習は徹底的に改良しないといかん』と説いてまはつた。
 遡れば、維新直後の廢刀論は、この森が口火を切つたものである。又た當時結成された輕薄極まりなきモダンボーイの結社「明六社」も又た、森が中心人物であつた。ほかにも「國語外國化論」の首唱者でもある。
 そんな森に纏はり、伊勢神宮不敬事件が新聞紙面を賑せた。森が伊勢の皇太神宮に於て、不敬ををかしたといふものである。これは後々、デマであるとの説も浮上するが、眞僞のほどは瞭然としない。ともかく森が斯くも新聞社に疑はれるべく、同時に、その報道が讀者に容易に信じられるべくした人物であり、西野氏の義憤忽然として燃え上がらせる理由としては充分であつたことは間違ひあるまい。
 斯くして義擧は、出來するべくして出來した。
  參考、◆◆刺客 西野文太郎の傳◆◆ ↓↓↓↓
  http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781850/1


 『大事件祕録 第四篇』(仝)に掲載される、村雨退二郎氏の記述が興味深い。
 曰く、『明治の刺客と云へば、大抵相當腕の立つ人間が多く、從つてその對格等もガツシリとしたのが普通であるが、西野は身長僅かに四尺九寸、よほど小男の方だ。その上平常からあまり健康の方ではなく、友人と腕押しをやつても一番弱く、劍道等も出來なかつた。その點では明治十五年に板垣を刺した相原尚聚と共に、刺客中の例外に屬してゐる。
 併も相原は絶好の條件の下に於て三度刺して遂に致命傷一本も入れることができなかつたのに反し、恐らく體力に於ては相原以下であつた彼が、唯一刀で森有禮を死に致したといふのは、殆ど奇蹟に近いと云つて好い位だ。
 その意味では、西野は明治維新暗殺中に、類例のない特異な刺客であつたと云ふべきだらう。多くの刺客は、勿論對手の隙を狙ふことに變りはないが、西野の如く進んで敵を欺いて敵に虚を作らせ、それに乘じて一擧に之を仆すといふほどの狡智を働かした刺客は餘りこれを見ない。
 のみならず、彼は自分の體力といふものを充分に測つてみて、到底正面から刀を揮つて斬り懸つても成功しない事を心得てゐたにちがひない。彼は前から立向はないで、横から飛懸つた。人間は前後に進退することは自由だが、横に動くことはあまり得意ではない。そこに虚がある。西野は森の腰を掴み、下腹部に出刃庖丁を突刺し、然も一刀必殺の意氣込みで、打たれても蹴られても離さず、背部に刃先が突き拔けるまで抉り續けた。恐るべき執拗さである』と。


 こは、氏の信仰するものが正に涜されむとする、その純々然とした怒りの發現に他ならない。西野烈士のみならず、山口二矢烈士も、小森一孝烈士による所謂る「風流夢譚事件」も、政治鬪爭や思想鬪爭の範疇に留めて置く可きではない。
 西野烈士は、宮城前を通り掛かると、決まつて、地面に平伏して拜禮したので、友人から「立つて最敬禮する法もあるのに、態々高山彦九郎みたいな事をして着物を汚さなくてもよいぢやないか」と云はれたといふ。
 信仰心を如何に考へるかはそれゞゝあるとしても、かうした至誠至純の心がより嵩ずるの折、まゝ時代の變革を促進させることは、吾人は歴史の上からも否定するわけにはいかない。明治維新の原動力が、神道に無關係でないことは説明するまでもない。

 先般、京都市にある高山彦九郎先生像に、白ペンキを投げた癡漢がゐるといふ。單なる惡戲であるか何であるのか野生に知る由もないが、地元の住民をはじめ高山彦九郎先生を崇拜する有志としてみれば、物質的損害に猶ほ倍して餘りある心情的悲痛を感ぜざる能はざることは拜察するまでもない。
 世は閉塞の感止み難く、人心汲々以て世知辛く、このやうな世相であるからこそ、日本人は科學萬能熱より頭を冷やし、信仰するの心を見直さなければならない。





# by sousiu | 2012-01-24 01:21 | 先人顯彰 | Trackback | Comments(2)

虎穴に入つて來ました。  

 昨日は、渡邊文樹氏の映畫を鑑賞。而して、會場で氏と大行社・木川智兄とで鼎談を行なつた。

 意外な企畫だが、これは渡邊氏の申し出によるもの。木川兄も野生も、何ぞ逃げる理由やあらん。いざ、だ。
 愛倭塾の山口、平田兩先輩、大行社湘南支部の仲村女史、銀杏結社(休眠中)河野全責任者も應援に來てくれた。

 野生は、渡邊氏のみならず、今日所謂る反日、反天■を叫ぶ者の殆どは、國賊ではないと信じてゐる。
 では、何か。彼れらは日教組教育や、戰後の誤れる歴史觀の犧牲となつた、未だ皇國の民たる自覺に至らざりし歴とした 天皇の赤子だ。
 野生のなかでは「國賊」とは、敵に與へる最上位の呼稱だと思うてゐる。例すれば、曾我入鹿、弓削道鏡、足利三代などは十分、さう呼ぶに相當する。而して、勤皇家たるもの、これら國賊を認めたとき、如何なる態度を以て接すべきか。そは口舌の徒に齊しき野生が語る能はず、それこそ歴史を開けば、先達が御自らが行爲して、吾人に教へてくれてゐる。
 一方、未だ至らざる人には如何に接すべきか。尊皇家は、既にそれ丈で皇國民としての教師たるべき資格を有してゐると野生は解釋する。資格と云はずんば、自覺だ。よつて兩者は、教師と生徒にも似た關係であると結論する。尤も教師がさうであるやうに、時には叱責せねばならない。時には懇々と説かねばならぬこともあるであらう。どれだけ、皇國臣民として名教師となり得るか、それが又た、日教組教育の汚染擴大を食ひ止める重要な一つであるとも思ふのだ。

 ところで、恥づべきことに右翼の名を用ゐつゝ、マスコミ受けを狙ふ(つまり大衆迎合)のあまり、誇りを捨て、未だ至らざる者の發言に淺はかな同意と理解を以て接する曲學阿世の徒がある。匹夫の勇ならぬ、婦人の仁だ。が、このテの手合ひは、教師たるべき資格を自ら抛棄した者と看做して宜いだらう。抑も、皇國臣民としての、教師たるべき資格を有してゐるのかどうかさへ、野生は怪しむに遅疑しない。
 野生は少年時代、恥ずかし乍ら、學業あまり振はず、持病である面倒臭病が頻々發症して學校も行つたり行かなかつたりであつた。そこで見たものは、教師に二者あり。我れら持病持ち一團に阿る者と、熱血教師との二者だ。今にして前者は名すらも忘れてしまつたが、後者は今も尚ほ鮮明に覺えてをり、成長するにつれて感謝することも少からず、ある。


 さて。渡邊氏には、日本の將來を考へるとき、何故に反天■でなければならぬのか、先づ訊ね、彼れによる冒頭の挑撥的發言にも一切心惑はされず、後半は木川選手と共に忌憚なき意見を呈した。
 野生は、一般に「反天■」を訴へる人達は、もう少し 天皇と皇國史に就て、學ぶべき必要があることを述べた。
 以下は渡邊氏に向かうて云ふのではないが、野生の識る限りに於て、反天■と云ふ人には、總じて歴史的認識が不十分であるといふ弱點を持つてゐる。率直に云へば、大凡、大東亞戰爭批判=先■批判=反天■(野生はこれにも十分な批判を加へたいが今は措く)でといふ思考的作用であつて、列聖に就ては殆ど、知識不足と云はむよりも、無知に均しい。であるから野生の如き淺學輩ではなく、研學を重ねた硬骨漢の尊皇家のまへでは、いとも簡單に論破されてしまふであらう。固よりそれ丈、造詣を深めむとすれば、殆どの者は思想的轉向を餘儀なくされる。左翼から右翼に轉向 -いや“歸結”といふべき、歟- する者は多いが右翼から左翼に轉向する者のほゞ存せぬことがこれを一層物語つてゐる。
 も一つ云へば野生は、「天皇制」といふ言葉も概念も認めない。 ↓↓乞ふ、御一讀。
◆◆呼稱「天皇制」なる言葉の本質。◆◆ http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/t7/2

 君民一體の國體は、制度などてふ人工的なものではない。「皇國の眞相」と「天皇制概念乃至理念」の距離は、あまりにも遠い。亂暴に云へば、水油相合せざるの如くに齊しい。よつて、皇國の闡明には、「天皇制」の概念は無用の長物である。さういつた意味では野生も、謂はゞ「反天皇制」の立場だ。説明するまでもなく「反皇國」ではない。然も彼れらは決して「反皇國」とはいはない。日本が、皇國であると、逆説的に認めてしまふことを懼れてゐるのであらうか。或いは、天皇赤子としての本能が、それを口にさせないのであるか。「反天皇制」といふ概念の蒙昧に就て渡邊氏からの反論は無かつた。鼎談を締め括るに際して氏は、我れら二人の意見には、同意しかねるところ少なしとせない旨、申してゐたが、さりとて聽く耳がないでは無かつた。氏も、決して狹小な視野で滿足する人ではなささうだ。客席からヤジの一つでも飛んでくるかと思うたが、案外(・・・と云つたら失禮だ)、聽者も紳士であつた。決して廣いといへない會場であつたが、渡邊氏の宣傳が巧みであつたらしく、會場は滿席。この雰圍氣にあつて木川選手はまだ若いのに、實に堂々として持論を展開してゐた。天晴れなる哉。


 映畫の新作に就ては・・・、十年に一度、映畫を觀るか觀ないかの野生に問ふだけ、無駄だ。


# by sousiu | 2012-01-23 09:54 | 報告 | Trackback | Comments(4)

歌道講座  

 今日は、歌道講座へ。二ケ月に一度の樂しみだ。
 和歌は和(こた)ふる歌である、と。歌を通じて學ぶところ多く、野生の樂しみは單に歌の添削のみとしない。 固より、こゝ歌道講座の主旨が、單なる歌に於ける技術的な成長のみを以てよしとするところではないのである。

 今度び、「天」に選ばれた秀歌は、木川智兄のうたであつた。

 木川智兄の哥
 ふるさとの 駅降り立てば 息白く 永き家路も あと僅かなり

 彼れは二首を詠んだのであるが、いづれも良い歌であつた。



 因みに野生も二首を詠んだ。

 壽ぎて 九重仰ぐ 民草の ひたすらにして 絆は深し

 お年玉 せがみし吾娘(あこ)の 面影も 今はなつかし 着物(はれぎ)すがたに

 何だか、半年前、和歌のことに就て何も知らなかつたころを考へると、下手ながらもからうじて詠むやうになつてきた。赤面。

 餘談であるが、眞由美先生の添削と、福永武兄の添削は、ほゞ同じ箇所で同じ内容であるといふ。
 歌の世界では流派といふのか何といふのか分らないが、それを正統に受け繼ぐといふことは、かういふことなのかも識れない。それは偏狹で、窮屈な考へ方といふことでない。自分の信ずる流派に屬するうへで、むしろ當然とさうなつてゆくものなのであらうと思ふ。しかるに、影山正治先生の志操は、今猶ほ面目躍如し後世の我れらに影響を及ぼされてをられるのである。逆言せば、正統なる繼承者の存在ありて、吾人は、影山先生の志操に接すること叶ふのである。
 同樣に、それは、信仰、思想の世界でも云へる。
 況んや、日本人としての、敬神 尊皇に於てをや、だ。
 時代と共に人が變はることは認めても、日本人としての節操や面目が變はつてはならない。


 大東會館を後にして、木川選手と乃木神社社務所二階で行はれた『維新公論會議』に參加。




# by sousiu | 2012-01-21 20:43 | 報告 | Trackback | Comments(2)

おはやう、ぢやないよ、おやすみなさいだよ。 

 毎月、依頼されてゐる『芳論新報』の原稿をたゞいま脱稿。
 締め切りを大幅に延ばしてしまつた。汗顏。

 今囘を終へて、連載から算へると漸く廿囘だ。大體、毎囘が四百字詰め原稿用紙を九枚から十枚。これから芳論新報社事務所にフアクスして、布團に入り、假眠して又た出發だ。

 先月だつたか、大阪の志賀智仁君に「山陵志に就て書かうかな」と呟いたところ、當日乘で「山陵志」を記したことを識つてゐる彼れは「禁じ手ではないか」と云はむばかり、苦笑してゐた。怒。
 だが、さうも口にしたくなるほど、書くに苦惱する時がある。正確に言を用ゐれば毎月、毎囘・・・かも。

 嘗て、籍を置いてゐた弊社々員が月刊機關紙を發行してをり、ネタ(といふのが適切かどうか解らぬが)に盡きつゝあることで、苦々たる心境を漏せたことがある。野生はこの言に對して一丁前にも説諭したものだ。
 野生の云はむとしたことは、かうだ。
 反日政策や反日發言がある際、筆意雄健、墨痕淋漓となるのは宜しとしても、これらが出現せぬ時に書くに惱むといふことは如何なるものか。それでは反日が活性すれば共に活性し、反日が沈默すれば均しく沈默するといふことに他ならない。紙面が面目躍如ならんとする爲めには、心の知らざる何處かで、反日的言動を欲してしまふからして、實に怪しからん。畢竟、右翼といふも左翼といふもそれは戰後史觀といふ胴體に於ける、腹背の干繋ではないか、と。

 以前、福永武道兄と、これに似たやうな話題となつたことがある。兄曰く「然り、それは負の祈りともなつてしまふのだから」と。さすが、兄ならではの答へだと思つた。

 固より左翼の對義語が右翼であるといふのは、それは固有名詞の別から考へるならば、なるほど、さう云へなくもないが、決して反日活動家あらねば尊皇家あらぬ、といふことではない。
 以前、東西冷戰構造も終はり暫らくして、野生は、陣営の外堀の住人から、「左翼が停滯し右翼も存在意義を失つたでせう」と意見されたことがあつた。全く見當違ひも甚しい。だが、若しも野生の側に、見當違ひをされる理由があるといふ御指摘を受けるのであれば、そは今でも眞摯に受け止めるつもりである。




 目立つた反日的話題がなくとも、記さねばならぬことは山の如くあるし、それに困るのであれば、別段時局を論じるに急ぐ必要も無い。ひとり心しづかに歴史を繙き私見を發表するも宜し。近眼視が良いといふものでもなし、ものごとを大觀、我が道を檢證するも宜し、だ。
 いくら神國と雖も、無論、衰微はある。しかし滅亡はない。終末思想に捉はればこそ焦燥にはしりがちだ。だがそれも義侠心あるが爲めに生ずる正義感だ。故に苦情をいふつもりは無い。たゞその貴き義侠心も正義感も、より神國に對する確信が加はり終末思想を捨て去れば、さらに光輝を増し有効なる力となること疑ふべくもない。
 
 ともあれ、さうした二人との會話を思ひ出し、脱稿後の解放された氣持ちを堪能しつゝ、珈琲を飮んでゐる。結局、野生もまだゝゞ未熟だといふことだ。


 ん?福永氏?さうだ、今週は「歌道講座」があるのだつた。・・・また産みの苦しみを味ははねばならない。

 取り敢へず、おやすみなさい。

# by sousiu | 2012-01-18 08:44 | 日々所感 | Trackback | Comments(0)

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