假令それが路傍の小石であらうとて

 起床。産土神社、そして本日は平沼稻荷神社參拜。參拜後いつもの豆腐店へ。
 
 最近、嬉しくも頼もしくも思ふことがある。
 
 こゝのところ、同志道友たちによる機關紙運動が活溌になつてきたことである。
 更に正統假名遣ひ、正漢字による表記が多いことだ。

 尤も、間違ひとてあらう。斯く云ふ小生も印刷後、赤面することだつて尠くない。
 しかし、「よゐこ」や「キヲク」など、安易な誤用は見受けられない。
 全ては彼らの、彼ら自身による、學究の成果だ。

 正假名・正漢字を使用すること、それだけで既に啓蒙だ。
「こは、一體全體、何と讀むのか乎」と不思議に思ふ讀者が辭書を手にする。
 それ假令如何なる小石であらうとて、穩やかなる水面に投ずれば、波紋は外へ々ゝと擴がりを見せるのだ。
 であるから、紙面に正假名・正漢字が存在するー、それだけで既に一つの運動であるのだ。

 勿論、拒否感を抱いて讀まぬ讀者もをられよう。
 そは、如何に驛前で正論を訴へても、一聽することなく通り過ぎる人々も多くゐることゝ毫も變はらぬ。
 だが、それを嘆くだけの理由が焉んぞ必要あらむ歟。

 先日、御惠投いたゞいた日本實踐奉仕團(代表・志賀智仁君)による機關紙 『實踐』 創刊號も、内容も然り、見事な啓蒙紙であつた。


 保田與重郎翁 『日本及日本人』(昭和四十四年一、二月合併號)に曰く
「さういふ斷絶の主體が政治制度の上で行はれたといふのではない。政治制度を變化操作できる程に、今日のわが國には政治はなく、政治家はゐないのである。根源的な斷絶のたくらみは、漢字の禁止と舊假名遣ひの廢止といふ、秦始皇の焚書以上の文明の斷絶策が、國民の知らざるところでたくらまれた。今日、大きい新聞社は各自社用の文法をつくり、大出版社も亦これにならひ、國語文法を一企業の方針で恣意に作つてゐるかゝる状態下文教の樹立はなく、文教樹立せずして政治の正しからう筈はないのである」と。
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by sousiu | 2010-04-05 17:20 | 日々所感

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