國體の精華

 それにしても歴史とは熟々偉大なものであると感ずる。

『近世日本國民史』では、詳らかに歴史的事象や時代背景を記載してゐる爲めに、ついぞ識り得なかつた出來事はおろか、未知なる人物が多く登場する。無論、小生が無知であることを殊更述べる必要もあるまいが。しかしそれを差し引いたとしても、國家の變動に關與してをりながら、大いなる歴史をまへに埋もれたまゝの偉人や勇猛剛膽の人もなほ大勢存在することを改めて識らされるのである。

『近世日本國民史』百卷と比べて、一册に收められた歴史書をみると、櫻田門外の義擧でさへ僅か半頁に過ぎない。
 吉田松陰先生も二、三行であらう。
 それでも歴史は確固として存在し、現代にまで紡がれ、彼らをして一册の本を作らせる。
そこには、いにしへの無名賢者や勇者の存在を傳へないが、それでも、現在が彼らの成果と賜物によれることを否定しない。


 今日は、新政黨の量産期である。
 ほかならず、政界の混迷を證明するものだ。
 續々と得體の識れぬ新黨が結成される有り樣に、愈々當惑し或いは白ける國民が増えやうとも、これを政界再建の兆と見做す者は至極稀ではないかと考へる。そしてこれが更に政界の混迷を深めるのだ。

 小生は新黨量産のこの状況を良しとも惡しきとも思はない。
 良しに付け惡しきに付け、彼らは來たる可き將來の日本中興の美を彩るひとつとなるのみ而已。
『世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ』である。
 大惡漢・井伊の赤鬼ですら、彼の望むと望まざるとに關はらず、やがての美を彩るひとりとなつたのだ。さても偉大なるは我が國體よ。
 再び徳富蘇峰翁の如きが出現せぬ限り、十把一絡げ、餘すところなく彼ら戰後自愛主義の新政黨など、大小問はず將來の歴史書のわづか一行に過ぎぬ。


 取り分け「日本創新黨」などは、將來にその名すらをも刻むこと能はぬであらう。
 何故か?
 何せ彼ら「ヒロシーズ」は、偉大なる「ヒロシ」に聲を掛け忘れたからである。
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by sousiu | 2010-04-19 19:14 | 日々所感

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