花は櫻木、人は武士

「芳論新報」及び「防共新聞」に寄稿する愚論を脱稿した。
 オタクの次は引き籠りである。

 昨日と今日で「につぽん好色英雄傳」(南原幹雄著「新人物往來社」昭和五十八年十二月十日發行)を讀んだ。
 内容は題名の如く。
 脚色めいた部分もあつたが、概して興味深く讀めた。
 英雄色を好むのか、時代が華やかであつたのか、よくはわからぬが、兔も角、時代に名の殘した先人らは失敗も失態も繪になつてをられる。


 學者にあつて右翼に缺けるものは學問かも識れない。
 されど右翼にあつて學者に缺けるものはドラマではないかと思ふ。
 
 小生の志友のなかにも現在、囹圄の身となり、坐して求學求道の日々を送つてゐる者らがある。
 今日も獄中笑坐で過ごされるであらうと信じて疑はない。
 とは云へ、その胸中を想ふと我が爲體を恥づるのみ而已である。
 勿論獄外にあつて、東奔西走してゐる人らだつて多い。
 皆、自ら此の道を志願し、そして今日も其の一人となつてゐるのだ。だから、假令多くの苦心・苦勞・苦難を抱へやうとも、ひたすら奮勵してゐるのだ。
 そして小生は、及ばずながらも、さうした世界の末席に連なつてゐることを誇りに思ふ。
“武士は喰はねど高楊子”である。そして、“身形は襤褸(ぼろ)でも心は錦”である。
 どこまでも、“花は櫻木、人は武士”なのだ。

 だから、であるのか。假令、今が世知辛き世の中であらうとて、我が陣營には、本人の求むと求めざるとに關はらず、成功も失敗も華となる人らが存在する。
 我らが浪人の世界もまだゝゞどうして。人材が豐富だ。さう云へば、人は思想についてゆくのではなくて、人は人についてゆくものだ、と誰れかゞ云つた。
 オタク化した小生も見習ふ可きである。汗。



 ※ ま。別に御奬めしてゐるわけでは御座いませぬので惡しからず。苦笑



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by sousiu | 2010-05-14 02:04 | 日々所感

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