日露戰爭實記  捌  

 明治卅八年十二月十三日發行 第百八號「梅澤旅團 壯烈譚」所收


『七  助かる傷ではありませむ』

 明治三十八年二月十二日午前八時、近衞後備歩兵第二聯隊の戸澤大隊の松田中隊より、鈴木分隊を出(いだ)して、前哨戰なる歪頭山村の東方松林に、獨立下士哨の任に付かしめ、嚴重に敵を監視せしめたるが、時しも前方の一部落前松木堡子の村端より、約二個小隊の敵の歩兵現はれ出て、其の動作より察すれば、正に是れ斥候の任を帶ぶるものゝ如し、於是(こゝにおいて)小哨の位置に在りし、小隊長星野中尉は、喇叭手松澤磯太郎氏を傳令として、下士哨兵鈴木軍曹に、其の敵を邀撃(えうげき)すべく命じたり。喇叭手即ち旨を奉じて其任を全うし、將に歸途に就かんとせしが、敵は已に近距離に肉薄し居たれば、哨長部下の兵士と共に、忽ち壕内に散開し、急射撃の下に、敵に多大の損害を加へ、其の企圖を達しめず、遂に死傷者を遺棄して、之れを敗走せしむるに到つて、共に快哉を叫びつゝ在りし、折しも此とき前面の高地なる、敵の野砲陣地は、約八門の砲火を、此の松林中に集中したりければ、我が哨兵の損傷するもの多く、喇叭手もまた其の斷片の爲に、一は左大腿に、一は右肺上部に、共に貫通損傷を被りたるも、性來沈着にして、勇敢なる彼れは、此の重傷に屈せずして、尚ほ銃を擬して、敵を撃たれむと身構ひ居たるを、傍(かたは)らの戰友之を助けて、他に負傷せる、大澤、大川の二兵と共に、一先づ本隊に收容し軍醫をして應急手當を施さしむる事となしけるに、喇叭手は微(かす)かに其の眼を開き『軍醫殿、私は迚も助かる傷ではありませむ、唯今御懇篤なる御手當を煩はしても、やがては手術臺上に露と消え行く身ですから、何卒(どうぞ)其れよりは、此處に居る二人の戰友は、私よりは至つて輕傷の樣子ですから私を捨てゝ、早く戰友を御手當の上、速かに全治の後、再度戰場に出でゝ、花々敷(はなゞゝしき)御働きをさせて下さい』

 嗟矣(あゝ)何等壯烈の言辭ぞや、軍醫は之れを聞き了つて、熟々彼れを凝視し居たるが、やがて眉間に決心の色を現しつゝ今迄堅く閉せし其の唇を破つて、
『善(よ)し判つた、汝が立派なる今の一言は、是れを我が全軍の士に聞かしめたならば、其士氣を振興する事何(ど)れ程であらうか、予は謹むで茲に汝が意志に副つて先づ二人の者に手當をするであらう、と、双頬に傳はる涙を、空拳に押し拭ひつゝ、他の二名の手當に着手すれば、彼は之れを熟視しつゝ、■[草冠+完]爾(くわんじ)と計(ばか)り笑を漏らして、
 有難う御座います種々御世話になりましたが、最早御別れを致します、中隊長殿始め、戰友諸君に宜しく御頼みいたします、私は地下より諸君の戰功を
 張り詰めし氣の急に緩みてや、ドツと一息血を吐きつゝ、芳魂遠く天に歸りて、勇敢なる此の喇叭手は、遂に白玉樓中の人と成りぬ、越えて翌日、彼れが遺骸は一片の煙りと化して、其の名は花匂嶺麓の楊樹の下に、特に手厚く葬られて、一基の墓標長(とこしへ)に、忠勇義烈なる喇叭手の名が刻せられたり。



(文中、振り假名及び、■[]()は小生による)


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by sousiu | 2010-05-22 04:53 | 良書紹介

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