ともあれ戰後史觀を脱却するが宜し

 六月四日。阿形充規先生の事務所で時局問題拜聽。

 夕方から新宿の阿形先生事務所に伺ふ。
結局、深夜の二時まで御邪魔してしまつた。

 この日、管直人氏が首相に指名された。
 尠き乍らも小生、人より見解を尋ねられる機會を得るが、返答はいつも同じ。
何故ならば本道にいつも變はらぬのであるから。國歩艱難、國運衰微の繰り返へしである。
 それまでの政治批判は前内閣と共に消え失せ、新たなる政治批判を必要とする。
禪讓とは、かういふ事だ。啻に途方もなく繰り返される丈だ。

 但し、先日の時對協定例會を始め、弊社機關紙、他誌への寄稿でも散々申し述べたが、政治批判が、無駄である、或いは、止めよ、と云ふでない。批判は批判として確りと申し傳へる可きである。
 だが、自らをして、それを我らの第一義としてはならない。批判や抗議はあくまでも、我らの第一義である皇國中興を成すが爲めの數ある手段の僅か一つである。極言すれば、理想を遂げる爲めの手段を補佐するまでの作用しかないかも識れぬ。
 喩へれば、改憲論が澎湃しつゝあるも、躑躅して進まぬのは具體的で且つ研究され盡した新憲法草案の誕生をみないが爲めだ。逞しく聲を上げる改憲論者も現行憲法の批判者にとゞまつてゐるからだ。だから街頭で、憲法を千萬批判すれども、なかゝゝ實を結ぶに至らないのである。
 批判や抗議を過信した運動は、學生運動らに顯著ではないか。
 町のおばちやんや、居酒屋で悲憤慷慨する勤め人の會話はそれでも宜しいが、志を高く有するならば話しは別だ。
 力なき政治批判はいつも一方通行であることも我々は忘れてはならない。
 政治批判で世の中が變はると思ふ青年は、併せて現實的な力を養成し、確固不拔の一團を築くことも忘れてはならない。その“力”とは、日本にとつて、或いは日本人にとつて“正しい力”のことである。だから“正しい力”を養ふ爲めには、“日本にとつて正しい力”とは何たるかを識らねばならない。識る爲めには、學ばねばならない。だから、求學求道なのだ。

 尤も小生は、日本に於て政治批判而已では、復古は期し難くあると考へる。
 我が國が支那や北朝鮮ならばいざ知らず、日本では先づ困難であらう。
 力を蓄へた一團が政治批判し、あはよくば政權を奪取しても、あはれ次なる失政を施す張本人となる。他ならず、これが戰後の呪縛だ。げに忌まはしきは自繩自縛の戰後體制だ。
 
 批判や抗議の持つ力を過信する勿れ。若し斯く云ふを得ずんば、神國に於て人力金權を過信すること勿れ。
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by sousiu | 2010-06-05 18:54 | 日々所感

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