義公による訓言  其の貳 =西山隨筆=   

 隱退後、義公は西山(せいざん)莊にて餘生を過ごした。
 その西山隨筆五則を掲げむとする。

徳川光圀卿、『西山隨筆』に曰く、
『人、幼少にして聰明器用の名ありとも、みだりに襃むべからず。十四五歳を過ぎて志變ずることあり。よき生れつきも惡く變じ、惡しき生れつきも善くなる事多し、これ大切の時なり。其の志正しき方におもむきて移らざるを見て後、襃むべし』と。

 愚案。人を判斷するには長い年月を要すべきだ、との事由。幼少にして聰明と雖も、後、如何なるか解らぬ。逆も亦た然り。今は小人と雖も、いづれ如何ほど偉業を成すか解らぬものであるから、人の現時點而已をみて、無暗に譽めたり、輕んじてはならぬ。かういふ教へだ。
 平澤次郎翁曰く、「河原はまつたく駄目な奴だぜ」と。最早口癖となつてしまつてゐる。翁、つゝしんで義公の言に學ぶべし。



 次いで曰く、
『女子は柔にして和順なるを襃む。男子は剛にして豪氣なるを善しとする。女の勇強に、男の懦弱なる、皆天地の道理にあらず。惣じて幼きは幼きやうに、壯年は壯に、老者は老に、隱者は隱に、職人は職なるべし。是れ順なり。これにそむきたるは逆にして惡し』と。

 全く以て其の通りだ。目下、男女平等が高じて同權を主張するジエンダーフリーやらフエミニストやらの問題兒が増加し、凡ゆる社會の混亂を生じ來たらしめてゐる。義公の云はむ言を拜借すれば、天地のことはりに背くものだ。なげかはしくは、草食系男子と肉食系女子の増加といはれる今次だ。男性は男性らしく、女性は女性らしくあるべきだ。就中、妻たる人、寡默を貫き、ひたすら夫を疑ふことなく家内の守りに徹してをればそれで宜しい。我が愚妻、つゝしんで義公の言に學ぶべし。



 次いで曰く、
『人おのゝゝ用ふる所あり。一事に長ずれども、又一事に短あり。その長じたる所を採り用ふべし。一人に何事も備はらむことを求むる時は、用ふべき人なし』と。

 愚案。世に完全たる人間はゐない。若しも完全なる者を求めるのだとすれば、用ゐられる可き者は皆無だ。短所は短所として受け止め、その者の長所を採つて用ゐるべきである、と義公。總じて平澤派の諸賢、呑めぬ小生を酒席で苛める。三澤浩一先輩に至つては、小生を噛む。それを目の當たりにした時對協平澤派、止める能はず笑つてをる。彼らに小生を苛める心あらずんば、除け者にせむとする心あるの疑ひを容れない。そは、首領の平澤次郎翁の了見に違ひない。時對協の平澤派は、つゝしんで義公の言に學ぶべし。



 次いで曰く、
『司馬遷が史紀を見るに、忠臣義士、功名高き人の傳、詳しく之を載す。然れば漢の紀信は、高祖の身代りに立ちて身を火に亡ぼせり。當時、紀信なかりせば、高祖の命保ち難からん。斯程の大忠臣を何ぞ列傳に特に載せざるや。或る人、紀信は只此の一事のみにて、其の外事實知れざる故に、特に傳を立てずといふ。大なる誤りなるべし。一事とても、天下無雙の大忠節、誠に百戰百勝の功よりもすぐれたり。斯くの如きの人は蕭曹張陳が傳と竝べ立つべきものなり。傳短しとて省くべからず。萬世の教を垂る。史記、此の一傳を缺くこといと殘り多し。後の史、晉書、唐書の類はさのみ功名もなき短き傳ども多くあり、省くにはしかじ。古の儒者、荀楊王韓、皆、明儒なり。善を勸め、惡を懲らし、聖人の道を尊び、邪僻の行ひを戒む。大儒に非ずして何ぞや。其の中に性を説けるに違ひありて、議論各異れども、皆一理ある事なり。畢竟、善人なり。若し異りとて謗らば、宋儒の道統を繼ぐといふなる人、皆異見なきにしもあらず。惣じて大儒を小疵ありとてみだりに謗るべからず。楊子が莽太夫と書せらるゝ掩ふべからずと雖も、法言の名語は尊むべし。君子に惜しき疵ある事多し。其の非を捨て、その名言を取る。これ活法なり』と。

 蕭曹張陳は蕭何、曹參、張良、陳平。荀楊王韓は荀子、楊子、王充、韓非子のこと。
 愚案。史實は、人によつては詳らかに書かれてゐたり、その逆であつたり。善きことが誇張され、或いは逆であつたり。從つて、風聞・口傳よりも、その者の業績、善惡を見通すことが大切である、と。さらば現代而已ならず近年の政治家、果して奈何。自虐史觀なぞ笑止千萬だ。ところで小生、曾て雜誌で排外主義や2ちやんねるを批判した際、小生の、批判に對する批判のスレツドが幾つか建つたことがある。曰く、「あの韓國人か」。曰く、「あのガリヒヨロか」と。いつの間にか小生で無い人間の惡口になつてゐた、噫。小生と云ふ人物、能く々ゝ識れば、屹度いい奴に違ひない。2ちやんねるの住人は、つゝしんで義公の言に學ぶべし。汗



 最後に曰く、
『儒者の異端あり。聖人の道を説きつゝ甚だ固滯にして物理に通ぜず、政をする時は民樂しまず俗和せず。その性命道徳を論ずるは高きに以て、自己今日の勤めは愚者に異らず、却つて白人に學問害をなすかと嘲らる。斯くの如き類、異端にあらずや。朱文公、陸象山、陳白沙、王陽明、各異端あれども、共に是れ千古の大儒なり。今日、其の書を學び、圓に用ふれば行ふところ皆善道となり、偏に用ふれば善行も惡くなるなり。日蓮宗三大部に固滯して、一句半言にかたより偏見をなすやうに、儒者も偏見を挾み、中和の道を失ふの徒、皆儒中の異端といふべし』と。

 愚案。その説法が如何に優れてをらうとも、現實に合致しないことには愚人の空言、机上の空論である。それゆゑに、他人から「學問は害を及ぼす」とまで嘲笑されることゝなる。優れた學問を今日の事情に則して解釋し、實學として學ぶることが必要であり、その言説をそのまゝ受け容れるならば却つて宜しからぬ結果を齎らさないとも限らない、といふことである。・・・・小生、つゝしんで義公の言に學んでみようと思ふ・・・・笑止。
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by sousiu | 2010-08-22 21:05 | 先哲寶文

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