烈公に學ぶ  其の壹 =弘道館記=

 義公瞑せられ其の後、少しく文運衰へ時が經ち、水戸の志も筐底に埋もれたかに見えたが、水戸住民に備はる熱誠は烈公の世に至り、猛然、澎湃をみたことは史實に明白だ。
 水戸學に於ける、義公の功績大なるを大日本史編纂だとするならば、烈公のそれは藩學の弘道館設立である。


蘇峰徳富猪一郎翁、『維新囘天の偉業に於ける水戸の功績』(昭和三年五月「民友社」發行)に曰く、
『何と申しましても、尊王攘夷の大本山は水戸であり、其の大宗師は烈公であつた。烈公は時としては餘りに一方に偏し、餘りに一物に熱し、餘りに一事に傾き、その爲めに心ならずも其の言は極端に趨り、自ら取り返しのつかぬ立場に立たねばならぬ始末に陷られたこともあつた樣でありますが、然も水戸學を具體化したる人は、正しく烈公であります。義公によりて唱首せられたる皇室中心觀念や、日本中心觀念は、烈公の尊王攘夷説によりて其の色揚げを致しました』と。


 烈公ー、徳川齊昭卿。徳川家最後の將軍、徳川慶喜の父君である。
 此の頃、水戸の兩“田”と稱された藤田東湖先生、戸田忠太夫先生てふ偉大な先覺者が御活躍されたことは史實に明らかだ。兩先生に、後の天狗黨の首領となる武田耕雲齋先生を加ふれば水戸の三“田”だ。更らに前掲したる會澤正志齋先生あり。安島峨興(帶刀)先生あり。他にも傑物が悉く出現し、そは將に群雄割據した時代だ。




 扨て。弘道館記には「文武岐(わか)れず」と説かれてゐる。

百川元氏、『水戸論語』(昭和十五年十二月廿日「改洋社」發行)に曰く、
『武士道は義を重んじたところに成り立つてゐたが、義と不義と判別するには學問がなければならない。いくら勇猛でも義の一字を蹈みはづした勇は匹夫の勇である。文道=學問の道=に明るくあつて初めて義を正しく守ることが出來る。武士の本分は一死奉公にあつたが、たゞ死にさへすればよかつたのではない。死は易い。逃げ道としての死は誰でも死ぬことが出來る。武士にとつては死が道である。そこに武士の一死は鴻毛よりも輕いと同時に泰山よりも重いものがある。武士は死ぬことによつて生き、武士として生きるためにこそ死ぬのである。死ぬために死ぬのは雜作がないが、生きるための死であるが故に、武士の死が武士道の上に尊いと共に、武士として死ぬことのむづかしさがある』と。


藤田幽谷先生、愛兒(東湖先生)を戒めて曰く、
文武は相待つて用を成す者。決して一方を廢するな。汝は文を學んでも腐儒と爲るな。劍を學んでも劍客に墮ちるな』と。(弘道館記述義の精神と釋義「旺文社」昭和十八年七月十六日發行より)


藤田東湖先生、曰く、
昔漢の周勃・漢嬰は文がなく、隨何・陸賈は武がなくて、皆人から笑はれた。男子は文武兩全でなければならぬ』と。(同)


 愚案。斯くなる水藩の精神は勤皇先覺の心に浸透せず能はず。されば志士豈に沈默を守らむか。水戸藩はやがて尊皇運動の火藥庫の如きと相成り、爆發的な運動を展開することゝなる。水戸天狗黨然り。櫻田義士然り。
 殊に東湖先生の畢世の心血をそゝいだ一大雄篇とも云ふ可き「弘道館記述義」に、其の面目躍如たるを解し得るなれ。
 烈公竝びに水藩の其の眼目は何。即はち皇道を明らかにせむが爲めなり也矣。
 小生はつゝしんで弘道館記をこゝに掲げらん。


弘道館記・原文(抄出)
『弘道者何。人能弘道也。道者何。天地之大經、而生民不可須臾離者也。弘道之館何爲而設也。恭惟、上古神聖、立極垂統、天地位焉、萬物育焉。其所以照臨六合、統御宇内者、未曾不由斯道也。寶祚以之無窮、國體以之尊嚴、蒼生以之安寧、蠻夷戎狄以之率服。而聖子神孫、尚不肯自足、樂取於人以爲善。乃若西土唐虞三代之治教、資以贊皇猷。献於是斯道愈大愈明、而無復尚焉。中世以降、異端邪説、誣民惑世、俗儒曲學、舍此從彼、皇化陵夷、禍亂相踵、大道之不明於世、蓋亦久矣。我東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允武允文、以開太平之基。吾祖威公、実受封於東土、夙慕日本武尊之爲人、尊神道、繕武備。義公繼述、嘗發感於夷齊、更崇儒教、明倫正名、以藩屏國家。爾來百數十年、世承遺緒、沐浴恩澤、以至今日、則苟爲臣子者、豈可弗思所以推弘斯道發揚先徳乎。此則館之所以爲設也。~』と。


弘道館記・讀み下し(同)
『弘道とは何ぞ。人能く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大經にして生民の須臾も離る可からざるもの也。弘道館は何のために設けたるや。恭しく惟みるに、上古神聖極を立て統を垂れ、天地位し萬物育す。其の六合に照臨し、宇内を統御する所以のものは、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。寶祚之を以て窮り無く、國體之を以て尊嚴、蒼生之を以て安寧、蠻夷戎狄之を以て率服す。而して聖子神孫尚肯て自ら足れりとせず、人に取りて以て善を爲すことを樂しむ。乃ち西土唐虞三代の治教の如き、資りて以て皇猷を贊く。是に於て斯の道愈々大にして復尚ふること無し。中世以降、異端邪説、民を誣ひ世を惑はし、俗儒曲學、此を舍てて彼に從ひ、皇化陵夷、禍亂相踵ぎ、大道の世に明かならざるや蓋し亦久し。我が東照宮、撥亂反正、尊王攘夷、允に武、允に文、以て太平の基を開き、吾が祖威公、實に封を東土に受け、夙に日本武尊の人と爲りを慕ひ、神道を尊び武備を繕む。義公繼述、嘗て感を夷齊に發し、更に儒教を崇び、明倫正名、以て國家に藩屏たり。爾來百數十年、世に遺緒を承け、恩澤に沐浴し、以て今日に至る。則ち、苟くも臣子たる者、豈斯の道を推弘し、先徳を發揚する所以を思はざるべけんや。此れ則ち館を設けたる所以なり。~』
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by sousiu | 2010-08-23 21:37 | 先人顯彰

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