烈公に學ぶ  其の貳 =告志篇=

烈公、『告志篇』にて曰く、
『凡そ武士たるもの、武道を勵まずして叶はざる儀は各々も承知の事に候へども、不學文盲にては相濟まざる事と存じ候。兒童も知りたる通り、今川了俊が文道を知らずして武道遂に勝利を得ずといへるは、其の言淺きに似たれども其の旨深しと思ふ。(中畧)

 士の大節に臨みて嫌疑を定め、戰陣に臨みて勝敗を明らめ、生死を決し義理を分つ。學問にあらずしてそもゝゝまた孰れぞや。然るに當世無學の士、是非黒白のわかちもなく、士は武藝を事として死すべき場にあらでも死す。學問は書生の事也、するに足らず學ぶに足らず、せざるのみにあらず、又從つてそれを謗る。是れ皆、生をいつくしみ死を畏るる者の言葉、士とするに足らざるべし。士たらんもの、死は分内の事なり。ただ義に處するをもて難しとす。されば己れ死すべき場なりと思へる。却つて死すまじき所にや。山賊強盜のたぐひ、死を見ること歸するが如し。もし命をいつくしまぬをのみ士といはゞ、これらの人も士なるべし。(中畧)

 能く能く文武の一致なる儀をわきまへ、兎に角に、修行專一に心懸け、何事を學ぶとも、年月を頼まず、學ばんと志さば速に學ぶべし。勤め向繁多、家事繁多と、いちゝゝ數へ立てていへば、ひまなきが如くなれども、己れの好む事するひまある事なれば、好みさへすれば何事にても大方出來ぬといふはある間敷なり。何程勇力ありても、習はぬ武藝はする事能はざるが如く、何程才氣ありても、生れのまゝにて學問せざれば、古今に暗き故、よき了簡分別も出申す間敷候。南蠻鐵も敷度の鍛へを經て名刀の名を得、白玉も磨瑳の數を經て夜光の名は得る事なれば、生れのままにさしおかず、文武とも、壯年の者は猶更精を勵み候樣に致し度候』と。

 當初水戸藩は尊皇崇幕であつた。これ、水藩の大眼目は當初から尊皇討幕であつたが、幕府の嚴重なる觀察もあり“崇幕”は方便にして本心は“反幕”であつた乎、若しくは初心にして“崇幕”ありと雖も、時流と共に“反幕”を掲げたるもの乎。
 愚案。藤田東湖先生の『弘道館記述義』を拜讀するに、水戸の最も侮蔑するひとつに、皇道を毀損した者、俗儒曲學の者とが擧げられてゐる。水戸の、固より信念が曲がらう筈も無く、亦た、忠孝を何より重しとみた水藩が、當初から討幕を掲げてゐたとは考へ難い。よつて孰れにも非ず、啻に尊皇を至上のものとしたが故の結果である。『武公遺事』(青山延于翁著述)にはかう記してある。武公とは義公の父君、七代水戸藩主・徳川治紀卿その人である。注目せられよ。

青山延于翁、『武公遺事』に武公徳川治紀卿の言を記して曰く、
『公は御平生、朝廷をことの外御尊敬被遊けり、或時景山公子へ御意遊ばれけるは、たとひ何方の養子と成候とも御譜代大名へは參り不申候樣に心得可申候、譜代は何事か天下に大變出來候へば、將軍家にしたがひをる故に、天子にむかひたてまつりて弓をも引かねばならぬ事□、これは常に君としてつかうまつる故にかくあるべき事なれども、我等は將軍家いかほど御尤の事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなは、少も將軍家にしたがひたてまつる事はせぬ心得なり、何ほど將軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはあるまじ』と。
【參照 7/44】http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781758

『武公は御平生、朝廷を殊のほか御尊敬遊ばされ、或る時、景山公子(烈公のこと)に御意遊ばさるゝは、「たとへ何方の養子になつても、御譜代の大名へは參り申さざるやう心掛けてをらねばならない。譜代は何事か天下に大變が出來たならば、將軍家に從つてゐれば、天子に御向かひ、弓を引かねばならぬ事があるからである。これは常に君として仕ふてゐるから斯くある可きが當然であらうけれ共、我等は將軍家が如何に御尤もの事があつても、苟も天子に御向かひ、弓を引くことがあれば、斷じて將軍家に從ふことはせぬとの心得である。何程將軍家に理があらうとて、天子を敵と遊ばされ候ふては、不義の事なれば、我は將軍家に從ふことはない」と』




 いづれにせよ江戸幕府の專横のもと、敬神尊皇の志を養ふことは、虎の尾を蹈むの如きであつた。而も水戸は幕府の親藩である。三家の隨一である。事實、こののち水藩は、其の志と戊午の密敕を巡り、井伊直弼一派から悉く彈壓を受け、嗚呼、水戸處士始め多くの士は夥しき其の血で土を赫に染めずんば能はず。反幕の人柱となるのである。これ世に識られる「安政の大獄」なり也。

 蓋し、學問を獎勵する水藩の一大事業は、我が國が神國であり、世界無比たる神聖の國であることを正しく傳へ、民の持つ爆發的なエネルギーを皇國中興の爲めにのみ向ける可きとの宿志であらう。尤も、もののふが文武兩道で無ければならぬは云ふまでもない。とまれかくまれ烈公の宿願と水藩有志の情熱は、多大な犧牲を被りつゝ、幕府の基礎を搖がす地鳴りを痛打した。求學の成果によつて、武魂が正しく昇華したのである。これぞ求學求道の面目躍如と云はずして何と申すべし。



弘道館賞梅花  徳川景山

  弘道館中千樹梅
  清香馥郁十分開
  好文豈謂無威武
  雪裡占春天下魁


弘道館に梅花を賞す  徳川景山(齊昭)

  弘道館中、千樹の梅。
  清香馥郁として十分に開く。
  好文、豈に威武無しと謂わんや。
  雪裡春を占む、天下の魁。

 水戸の弘道館と偕樂園は梅の名所として識られる。そは烈公の命により植ゑたるものだ。
 烈公は梅の花を民衆と樂しむ爲めばかりに植ゑさせたのではない。梅が雪の中から花の魁けをするのになぞらへて、天下の魁けたるべき精神の涵養を望んだのだ。亦た梅の實は採つて兵糧の備へとする目的もあつたさうな。
 風雲急を告げる。正氣漲るや間も無しー、そんなころの咄である。


 ・・・何だか日乘の内容では無くなつてしまつたが・・・・小生は水戸贔屓なので今暫らく、御高恕賜はらむ。
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by sousiu | 2010-08-24 17:47 | 先人顯彰

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