志士のすゝめ

 蔓延元年三月三日。奸賊原の中心人物井伊直弼、當時の江戸城櫻田門外に於て、水戸の藩士を主とした義士一團によつて誅せらる。
 井伊の後任者は安藤對馬守信正であつた。安藤は久世大和守重之を推薦し、こゝに久世安藤政權が確立された。
 この時の状況について徳富蘇峰翁の文言に詳しい。
蘇峰徳富猪一郎翁曰く、
『~井伊から排斥せられたる久世が、井伊の死後再び老中部屋に出で來たりたるは何故であつた乎。此れは安藤が己れ一人では、幕閣を支持するに不足なれば、信用ある人物を、其の仲間に引入れんが爲めに、故らに彼を推薦して、己が上席に据ゑたのであらう。されば井伊以後の幕閣は、久世、安藤聯合内閣とも云ふ可き歟との説をなす者もある(福地源一郎著 幕末政治家)。併し更らに立入りて見れば、久世は名で、安藤は實。云はゞ安藤の頭に、久世の帽子を著けたるものと云ふが適當であるかも知れない』(『近世日本國民史 第四十五卷 ~久世安藤執政時代~』昭和九年四月一日「民友社」發行)

   權門上に傲れども國を憂うる誠なし
 とは、三上卓先生による哥だ。哥詞の如き有樣は過去も現在も何も變はらない。憂國の士が政界にあらぬので、國歩を雙肩に擔ふ丈の人物を育てることが出來ないのだ。要するに政界には人材が頗る缺乏してゐるのだ。人材無きが爲め、保身に走る痴漢どもが斯樣な策を凝らし、畢竟、政道を誤らせるのだ。まつたく以て今も昔も同じだ。


 その久世安藤政權の成績は果して奈何。

勝海舟翁「開國起原」にて曰く。
『是より後、久世、安藤等の諸閣老政柄を執り、群小比黨、賄賂の風も益盛にして、務て從前大老の非政を彌縫し、嚴に檄徒を糺察し、彌天下の人望を失す
 ・・・現在と全く同じだ。

 曰く。
『顧ふに櫻田の奇禍は、國家の大變にして、嘆ずべきの至といへども、此機に乘じ、改過自新、廣く衆言を納れ、人材を拔擢し、弊政を一變せば、或は志士の憤恨を慰し、輿望を收るの道なきにあらず
 ・・・近年の未だ大禍こそなかるとも。未來に於て長久、彼らに禍なきこと誰れぞ保障する者あらん。神ならぬ身の者の知る由もなし。然るに政界に身を置く者は歴史を眞摯に學ぶ可し。先進の言に耳を傾ける可し。

 曰く。
『事此に出ずして、依然舊轍を改めず、摸稜、姑息、彌衆怒を激し、其極終に幕威地に墜ち、囘復すべからず、惜哉
 ・・・因果は應報す。禍たるもの賢者は能く避け、愚者は避け難く。

蘇峰徳富猪一郎翁、同上の書にて曰く。
此の時代を一貫したる幕府の政治は、一言すれば糊塗、摸稜、姑息、曖昧と云ふの外は無かつた。安藤は才氣あり、久世は老練であつた。されど彼等は一時の苟安を偸取する以外には、別に確乎たる經綸も無ければ、抱負も無かつた


 斯くの如くある安藤であるが。押し寄せる外國軍艦の威壓に於て以下の如き抵抗を試みた。
 外國軍艦の入港の際、相互で祝砲を交換する習ひに應じぬ幕府は、亞米利加國公使ハリスより詰問を受けたのであつた。
 其の樣子を、「幕末外交談」(明治卅一年)から識ることが出來る。
田邊太一氏、「幕末外交談」に曰く、
『斯て歳月を經て遣米の使節、歸朝に及びたれば、我國人も海外の風光を觀、幾許か悟るところ有る可し。最早今迄の如き頑論もあるまじと亞國公使は閣老と面談の際、再び祝砲の事に及びしに、猶國俗の驟かに變ずべからざるとの口實は、依然として、其の昔の如くなりしかば、公使も、今は然云はれまじ、貴國の軍艦の我が桑港に著せし時は、廿一發の祝砲を放たれしは事實也。これ既に其の國俗を變ぜられしものならずや、と論詰せしに、安藤對馬守は自若として、さればなり、貴國は祝砲を放つの習俗あるにより、我が軍艦も其の地に在らば其の俗に從ひ放つて、これが禮となせるは固より怪しむべきなし。我國固より然る習無し。我軍艦の我宿習を棄て貴國の禮に從ひしこと果して理ありとせば、貴國の軍艦の我國に來るものも亦其の自國の習を用ゐず、祝砲を打放せざることこそ、相互の禮式に協ひ然るべきにあらずや、と答へられしには流石のハリスも再び口を開くことなく止みし。是たゞ一時口舌上の詭辯なれども、安藤閣老の警敏にして應答に巧みなると、外人に歩を讓ることなかりし一端を見るべし』と。

 要するに。手短に云へば、
 ハリス氏「日本の軍艦が我が桑港(サンフランシスコ)に入港する際には、廿一發の祝砲を放つのであるから、頑迷固陋とならず、我が軍艦入港の折にも祝砲を放つべし」
 安藤氏「貴方の國では祝砲を放つの習慣があるのであるから、我々が其の地に赴かば其れに從ふのみ。しかしこゝは日本である。日本には其の習慣は無い。我が國の習慣によつて御迎へすることこそ禮を表することである」
 田邊氏「流石のハリスも閉口した」
 と、かういつたことだ。一應、御尤もの言ひ分だ。第三國者の誰れが聽いても日本側に理なしと思ふまい。


 愚案。天下志士の、今や沸點に達せむとする赤熱の如き激情と。それに加へ、頭と胴とを別たれた井伊直弼を識るの安藤信正は、恐れを抱き、寒心に耐へざるがゆゑ、祝砲交換を拒否したのかも識れぬ。若しくは小人にも五分の魂、我が國を訪れたからには、假令大國の使者であらうとも、我が國の習ひに順じていたゞかう、との純乎たる誇りと意地からであつたか。

 今月七日に尖閣諸島沖で支那漁船衝突事件を惹起し、公務執行妨害の罪を問はれた船長の詹其雄を釋放する旨、那霸地檢が發表した。
 日中關係の考慮を理由とした事實上の超法規的措置だ。こは第三國者の誰れが聽いても日本側は理非に疎いと思はぬ者はあるまい。“日中關係の考慮”は、即はち、“中共への阿諛”を意味し、それを世界に廣告した。
 一歩の後退は十歩の後退を肯ふ。十歩の後退は百の後退を要求される。
 この場合の“後退”は“讓歩”と書き換へても宜しい。“諂諛”と云うても宜しい。だが、小生も日本人。切齒扼腕すれども、其の語を用うるに躊躇せず能はぬ。恰も“占領軍”を“占領軍”と呼ばず、敢へて“進駐軍”と呼んだ當時の人達の心境に似れるものかも知れぬ。
 軟弱外交の極はみ、と、後世の嘲笑をかふ幕末でさへ安藤對馬守信正の如く、小なり微なりと雖も抵抗を試みた。果して未來の國民は今の時代を如何なる言葉もて形容すべき。
 戰後に於ても今後に於ても世界に向ひて、我が國威を闡明するに期待の託せる人物が政界に存在するを、口惜しけれども小生は識らない。

 だが、小生同樣、彼らに對して悔し泣きする御仁は、安藤の如き小人でさへも、僅かばかりの抵抗を止む能はざるに至らしめた草莽の士となるを志すべし。政界に人材無きと同樣、在野にも人材無きと思はしむる勿れ矣。
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by sousiu | 2010-09-24 23:50 | 日々所感

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