2011年 01月 12日
あしたのジヨー
とは、小生の生まれた年、昭和四十五年三月卅一日に起きた「よど號ハイジヤツク事件」での聲明文である。
昨日の報道によると、
『そろそろおれの出番かな。入學おめでたう。矢吹丈』
と文章が添へられ、不詳の人物から兒童擁護施設にランドセルが寄附されたといふ。
流石。「戰後最大のヒツト漫畫」の一つ「あしたのジヨー」。
小生が生まれて初めて手にし、爾來魅了せられた漫畫である。昂じてボクシングジムまで通つたくらゐだ。苦笑。
原作の梶原一騎氏は、「よど號の犯人の聲明文では複雜な氣持ちになつた」と囘想を記してゐる。作家の梶原一騎としては冥利に盡きるも、相手が相手だ。事が事だ。高森朝樹としては迷惑千萬であつたことが本音ではなかつたか。
だが、今日の“善意の輪”報道では、梶原一騎としても、高森朝樹としても、幽界で嘸ぞ喜んでゐるに相違無い。「タイガーマスク」も氏の作品だ。
久し振りに、心和やかなニユースだ。
“おれゝゝ詐欺”やら、“振り込め詐欺”やらと、日本人にあるまじき事件が亂發せられるなかにあつて、斯うした報道は幾分、心の鎭痛劑の效能があるやうだ。
徳には、陰徳と陽徳とがある。陰徳とは人に知られるを望まぬ厚意のことで、陽徳とは、人に知られることを望み施す行なひのことだ。
「徳を積め」とは聞かれる言葉であるが、この場合ひ、「陰徳を積め」といふことだ。
陽徳は・・・見返りを求むる行なひ・・・であるから、陽徳は惡徳と換言することが出來る。
“善意の輪”も、マスコミが過剩になると、何となく人工的な色彩を帶びてくるが、そこまで穿つこともあるまい。今囘ばかりは素直に微笑むとしよう。そして、マスコミの報道熱が冷めても、かうした心が人知れず廣がることを期待するのみだ。
by sousiu | 2011-01-12 23:29 | 日々所感