我れ山頂を仰ぎて麓に在り

 昨日の日乘を讀み返へしてみると、誤字あり、意味不通の箇所あり。二、三の加筆、修正した。
 讀んでくれてゐる御仁のあるか否かは判らぬが、さう信じて恥づかしながら、改めたものだ。
 (いや、勘違ひしないで。昨日、「コメント」が無かつたから、卑屈になつてゐるのではない。小生は、全然平氣だよ)

 たゞ、機關紙はさうもまゐらぬ。人に寄せる文章も然りだ。
 今日は、諸賢より賜はつた書簡の返信と、ミリオン出版の長島女史より承つたコラムの執筆。あ、あと機關紙の執筆の續き・・・・、それは五十文字ほどかな、進んだ。汗。


 話しは變はるが、昨秋、山梨縣に住はれる某翁より御指摘をいたゞいた。
 翁曰く、「もう少し、自分自身の言葉を遣ひたまへ」と。
 この御指摘は眞摯に受止めた。小生、淺學のそしりを免れる能はず。道遙るかなるを識りながら、未だ麓に在りて日々山頂を仰ぐの心境だ。
 されど現在、默して語らぬこと堪らへ難くあり。故に先人の言乃葉を謹んで抄録し、筆誅・・・とは烏滸がましく、文章報國・・・それに叶はぬまでも、微力を盡くしてゐるつもりである。小生の言葉でないことは事實であるが、小生の意であることも、まがうことなき事實である。

 尤も、先達の玉文を抄録するに誤字があつてはならぬ。先達への禮儀だ。一度、こつそり備中處士樣から誤記の御指摘を賜はつたが・・・・汗。
 しかし自分の文章にはどうも油斷があるやうだ。
 先づ、言葉を大切にすることー、これを小生は克服しなければ、到底、某翁の御期待に應へる可くもない。

 「言葉は生きてゐるから時代と共に變化する」とは何處かの作家の言葉だ。
 賣文屋ならではの御尤もな御意見だ。變化に對應出來なければ、賣るものがなくなる。

 だが、文化を護る、といふ我らはさうではない。先人による、珠玉とも云ふ可き學究の成果を學ばねばならぬ。
 我らは復古を實現せんとする維新陣營ー、國史を學ぶのみでなく、精神、志操、理念・・・、かうした筐底に祕するが如くある遺産を繙かねばならぬ。言葉を正さずんば、その作業は進行をみないのである。
 それを證明するかの如く、幕末志士達は洋書や蘭學を座右の書としたのではない。大日本史や頼山陽先生の日本外史、そして惟神の道を説く書籍を手元にし、愛したのだ。何故なら、そこにこそ彼ら先達の魂を揺るがすものが在つたからだ。

 某新右翼の代表は、英語を流暢に話せる。それはそれで大したものだと思ふ。皮肉ではない。
 小生は英語の讀み書きはまつたく出來ない。けれ共、明治、慶應の御宇くらゐまでの古書は如何にか讀める。「それより英語を讀み、書き、話せるはうが遙るかに此れからの社會に役立つ」と思ふ御仁が多いと思ふ。正しい見解だ。されど小生は「これからの社會」より「これからの日本」の役に立つ一人の日本人になりたい。 小生が利口ならば、兩方を同時に學べたであらうが、さうもいかない。小生にとつて、優先順位は英語でなく、亦た、流行語や和製英語ではないのだ。

 維新者はさかしまに倣ふこと勿れ。我が國の基を熱心に學ぶ可し。
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by sousiu | 2011-01-28 01:46 | 日々所感

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