一艸讀後  ~靖獻遺言精義~ 二 承前  

 山崎闇齋先生の御高弟に、淺見絅齋先生がある。

●靖獻書屋主人の曰く、
『山崎闇齋が、其の思想的放浪の果、純乎たる日本精神に眼ざめ、未だ直譯的範疇を脱却する能はざりし儒教をして、眞に皇道を醇化せるーーー換言すれば日本的なる儒教原理を樹立せしことは、既に前述の通りであるが、此の闇齋によりて樹立せられた所謂「崎門學」の正統を繼承せるものは、實にわが淺見絅齋先生にして、所謂「崎門學」の神髓は、先生によつて更に急速なる發達と展開とを見るに至つた』

『即ち理論たるに止まらずして實踐せしめ、其の理想を顯現せしめたるものにして、王政復古の大業は、一方に賀茂眞淵、本居宣長等の眼ざめたる國學者及び高山彦九郎・蒲生君平等の新思想家によつて訓致されたとは言ひながら、山崎闇齋學派の力、殊に先生の旨を傳承した人々の力ーーーによつて釀成されたと見るも決して誣言ではなく、先生を稱して「近古勤王の先驅者、王政復古の首唱者」と稱するも決して過言ではないであらう』


『淺見絅齋先生の著書中、弘く世に行はれ、人心を鼓舞覺醒せしむるに與つて力ありしもの、「靖獻遺言」八卷を第一に數ふるべきであらう』

『當時の支配階級は勿論、一般國民に至るまで、江戸に幕府あるを知つて京に朝廷あるを知らず、將軍の畏るべきを知つて、聖天子の崇ぶべきを知らず、之に加へて、日に加はるの幕勢は、上と下との間に介在して天日をさへぎり、朝廷は徒らに虚器を擁して、其の御威權は全く失墜せるものゝ如くに拜された。
 斯かる情態の、君民一本道を本領とする我國體にとりて變體的なりしことは勿論である。而も當時の碩學高儒中には將軍を呼ぶに「皇上」或は「國王」を以てし、敕使の下向を「來聘」と稱する者あり、國學の大家にして尚幕府を呼ぶに「江戸の朝廷」と爲すものさへあり、中には、實權の上より朝幕を論じ、實權なき朝廷の存在を不合理とする者さへ出づるに至つた』

『而も、當時の學者は、その一面唯支那の崇拜すべきを知つて、我邦の尊ぶべきを知らず、漢字の使用に於いて最も高き智識を有した身が、支那を「中國」とし、我邦を「夷狄」とし、拜外か、然らずんば自屈、甚しきは拜外自屈を兼ねて得々たる有樣にして、一般に信じられてゐる所によれば、一代の碩學荻生徂徠さへが「東夷小子」「日本國夷人」を自稱して後人の指彈に逢ふて居る』

『國家、王霸處を換へて久しく、幕府の基礎の崩壞は夢想だに許されず、而も社會の木鐸たる學者が、幕府擁護理論の提供と、支那崇拜とに汲々たる時代に於いて、之が是正覺醒のための警鐘は、萬卷の書を以てするとも叩き得ぬであらう。
 さり乍ら、純正日本的なる儒教に據れる絅齋先生にとつて儒教が示す、「王霸の辨」は既に講經の對象たらむよりは實踐の對象であつた。
 當時三十二歳の青年儒者たりし先生にとつて、自家の學問が示す指導原理「尊王の義」は絶對であり、他の儒者の多くの如き、權力との妥協は夢想だに許されなかつた』



○湯淺常山翁「文會雜記」に曰く、
『モシ時ヲ得バ羲兵ヲアゲテ王室ヲ佐クベシト云テ靖獻遺言ヲ作リタルナリ』と。

○渡邉豫齋翁「吾學源流」に曰く、
『淺見子、名教ヲ嚴ニシ士氣ヲ振ハント欲シテ靖獻遺言ヲ作ル』と。

○平泉澄博士「少年日本史」に曰く、
『絅齋は元祿元年に之(靖獻遺言)を講義して何故此の書物を作つたか、その趣旨は何處に在るかを明かにしてゐますが、それは、君臣の間の道義といふものは、平素からよほど精密に考究して置かなければ、いざといふ時に臨んで處置をあやまりやすいものである、此の書は人々の心を大義に練磨しようとするのであつて、之を讀めば、學問といふもの、どれ程大切なものであるか、學問によらないでは、一歩も其の身を動かす事が出來ず、爲すところ、すべて妄動に過ぎない事が分るのである、と云ふのであります』と。確乎()及び確乎内は小生による。

○淺見絅齋先生御自ら曰く、
『天下ノ人既ニ尊王ノ大義ヲ知ラバ、幕府ハ自カラ其勢ヲ失ヒ、皇室古ニ復ラン』と。

~續く~

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by sousiu | 2011-02-14 20:03 | 先哲寶文

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