一艸讀後  ~靖獻遺言精義~ 四 承前  

 「靖獻遺言」について長くなつてしまつたが、これはあくまでも日乘なので、靖獻遺言の内容について記すことが本旨ではない。固より、小生が淺薄な理解力で内容を語り、不本意ながらも曲解を弘めることなきにしもあらず。從つて、諸賢に對しては御一讀を御奬めするのみとする。

 「靖獻遺言精義」を拜讀し、小生の記したかつたことは、遂ひに、今日これからのことにある。

●靖獻書屋主人の曰く、
『王政復古、明治維新後に於いても、「靖獻遺言」の一書はなほ國民の間に喜び讀まれて居つた。殊に志を君國に存する青年にとつては、愛讀といふよりは寧ろ耽讀の對象として、青年の士氣を鼓舞し、所謂節義思想の涵養に資すること大なるものゝあつたことは、明治初年に青少年期を送つたーーー嘗て君國の爲めに、自己が屬する社會に於いて夫々果敢なる健鬪をなし、今や國民の老先輩として崇敬されつゝあるーーー人々の、異口同音に唱へられるゝ所である。
 此の當時に於ける、「靖獻遺言」の使命は、幕末期に於いて果したる夫れとは、既に其の形態を異にしてゐることは見逃してはならぬ點である』

『先に尊王倒幕、王政復古の指導者となり、後には倒幕に代る節義思想鼓吹、士氣振作の教典となつた「靖獻遺言」の影響について語る時、我等が忘るべからざる一事がある。それは嘗て儒教を我が國に傳へたる支那が、自國の史籍に材を採れる此の「靖獻遺言」を翻刻し、之によつて國民精神の作興を計つたこと、これである』

『斯くて、支那國民中の賢明なる人々は、老頽自國の病弊を反省すると同時に、日本發展の原因を研究せんとする熱望に燃えた。我國より多數の教育家を招聘したる支那に於いて、或は大量の留學生を我邦に送り來りし支那に於いて、當時彼等が如何に自國甦生の爲に努力を拂ひたるかを知ることが出來る。
 自國の甦生策は、日本の明治維新に倣はんのみーーー日本史、特に維新史研究の爲に往年の留日支那學生が如何に努力を拂ひたるかは周く人の知る所。彼の中國革命の如きも日本の明治維新が遠因をなして居るーーー其の失敗に終りたる原因は國體國民の相違は勿論ながら、彼等が中途にして淺薄なるアメリカ心醉と蘇聯模倣に奔りたることにあるーーーのである。

 淺見絅齋先生の「靖獻遺言」が支那に於いて、而も北洋武備研究所に於いて印行せられたるは、實に斯かる日本、特に明治維新の指導的原理を究めんとせし、彼等の努力の一證である。之が初めて出版せられたる徳宗皇帝の光緒三十二年が、我が國が大捷を博したる日露戰爭の翌年、明治三十九年に當ることも、實に興味ある事實であるが、斯く「靖獻遺言」によりて、所謂儒教精神は遂に支那に逆輸入されるの結果となり、支那人學者も亦之によつて自國の歴史を見直さんとしたことは、現北京大學教授黄節氏等が、嘗て「國粹運動」を企てたる一事に於いても證し得る所にして、黄節氏の如き、其の著「劉因傳」(國粹學報第三册)の前後『靖獻遺言』に據つて之を書いて居るのである。
 又以て「靖獻遺言」の中外にほどこして悖らざる聖典たることを知るべきである』と。



 續く
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by sousiu | 2011-02-16 20:26 | 良書紹介

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