日々發見、日々求學  『萬物の靈長』  

 まつたく日々は發見だ。

 原稿を書いてゐると、時折り、使用するに戸惑ふ言葉がある。
 言葉に戸惑ふ、とは乃はち、概念の曖昧さから生じるものである。これは一言にして盡せば小生の未熟なるが爲めだ。

 例へば、昨日分斷抄録した、『玉くしげ』のなかに説明されてゐる髮長用語の「因果應報」だ。
 我が機關紙でも「因なくして果の出づることなし」と記したことがある。が。言ひ譯のやうだが、これでも書きながら、惱んだ部分なのだ。
 得てして使用するに躊躇する語彙は、後々、相應しくないことが屡ば判明する。
 從つて、弊社の機關紙、號を重ねる毎に消滅した單語が尠くない。讀み返へすと、存在し得ぬ語句が陳列されてゐるのであるから、それは赤面の至りだ。

 未だ、不安な單語?概念?がいくつかある。

 そのうちのひとつ、『萬物の靈長』だ。以前、使用する前にヤフーの辭書で確認したところ、『萬物の中で最も靈妙すぐれたもの』とあつたので、う~ん、と思ひながらも使用した。小紙を御清讀くださる御方はこの語を散見したであらう。そのなかには違和感を持たれた方もあるに違ひない。さう。これはやはり野生の觀念の歪みであつた。それを賀茂眞淵先生によつて今の度び教へられたのである。


●賀茂眞淵大人『國意考』(文化三年)に曰く、
『又た、人を鳥獸に異なりと言ふは、人の方にて、我れ賞(ほ)めにいひて、外を侮るものにて、又た唐人の癖なり。四方の國を夷と卑しめて、其の言の通らぬが如し。凡そ天地の際(あひだ)に生きとし生けるものは、皆、蟲ならずや。それが中に人のみ、いかで貴く、人のみ、いかなることあるにや。唐にては、萬物の靈とかいひて(・・・こゝから耳が痛い)、最と人を貴めるを、己れが思ふに、人は萬物の惡しきものとかいふべき。いかにとなれば、天地日月の變はらぬままに、鳥も、獸も、魚も、草木も、古の如くならざるはなし。是れ憖(なまじひ)に知るてふことのありて、己れが用ひ侍るより、互ひの間に、樣々の惡しき心の出來て、終に世をも亂しぬ。又た、治まれる中にも、片見に欺きをなすぞかし。若し、天が下に、一人二人物知ることあらむ時は、善きことあるべきを、人皆智あれば、如何なることも、相打ちとなりて、終に用なきなり。今、鳥獸の目よりは、人こそ惡ろけれ、彼れに似ること勿れと、教へぬべきものなり。されば、人のもとをいはば、兄弟より別れけむ。然るを、別に定めをするは、天地に背けるものなり。見よ見よ、さることを犯すものの多きを』と。


 眞淵大人は、人をして“天下に最も優れてゐる”といふ傲慢より出でた理り(儒教や佛道など)なぞ、天地の心の悟るを阻害する原因であると説いてゐるのだ。從つて「萬物の靈長」なる觀念は、全然百害あつて一理なし、邪なるものである、とかういふわけだ。
 ・・・恐れ入りました。改めます。


○又た曰く、
世の中の生けるものを、人のみ貴しと思ふは、愚かなることなり。天地の父母の目よりは、人も獸も鳥も蟲も、同じことなるべし。夫れが中に、人許り聰きは無し。其の聰きが善きかと思へば、天が下に一人二人聰くば、善きこともあるべきを、人皆聰ければ、互に其の聰きを構ふるにつけて、よりよりに邪の起れるなり。夫れも自づからこと少き世には、思ひよもにはせ、唯、面眼(まのあたり)のみにして、事を爲す故に、聰きも少し。依りて小き事はあれど、大なる事はなし。
~中略~
 扨、少しも物學びたる人は、人を教へ、國と經濟とやらをいふよ。彼れが本とする孔子の教へすら、用ひたる世々、彼處にもなきを、此處にもて來て、如何で何の益にか立たむ。人は教へに從ふ物と思へるは、天地の心を悟らぬ故なり。教へねど犬も鳥も、其の心はかつゞゝあれば、必ず四時の行はるゝが如し。同姓を娶らずと言ふを、善しとのみ思ひて、此國は兄弟相通じたり。獸に同じといへり。天の心に、いつか鳥獸に異りといへるにや。生きとし生けるものは、皆同じ事なり。暫く制を立つるは人なれば、其の制も國により、地により、異なるべきことは、草木鳥獸も異なるが如し』と。


 言葉を正す可し、と力説した先哲は尠くない。こと國學者は多くの人が研究し、而、言擧げには細心の注意が拂はれてゐる。
 それは、言葉を正すことが即、觀念を正すことに相通ずることを誰れよりも良く存じてをられたのだ。これを逆言すれば、言葉の亂れは即ち思想の亂れ、觀念の亂れである。


 言葉を正すと云つてもそれは例へば、「頭痛が痛い」「談合し合ふ」のやうに文法上、相應しいか否か、などと云ふ瑣末なことではない(賣文屋や國語學者からみれば決して瑣末なことゝはいへまいが)。心ない人や國學を識らぬ人から能く聽かれる話で、インテリぶる爲めにわざゝゞ難しい用語を使ふ、など一聽の價値に滿たない理由を以て、言擧げを正せ、と主張したのではないのである。

 
 以上、小生の誤りは、うつかりしたことによる字句の誤用などではない。歴然たる心得違ひから生じたものだと認めねばなるまい。固よりかうした小生の觀念の歪み、誤謬には如何なる言ひ譯も用を成さぬ。
 であるからして、日々の求學は盡きる事なく、小生の好奇心を擽り續けるのだ。

 また發見したことがあれば、赤裸々に當日乘で懺悔と共に告白したい。・・・ん?「懺悔」も髮長用語、歟。こりやいかん。
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by sousiu | 2011-06-17 01:59 | 日々所感

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