學問者樂物也矣 

 昨日、今日と、阿形充規先生の事務所に御邪魔し、遲くまで御尊話を拜聽。先程歸つて來た。

 野生は金も無い。輝かしい經歴も無い。學歴は勿論のこと。先覺志士のやうな能力も無い。野生の持てる力だつて瑣細なものであつて大したものではない。
 何も無い野生であるが、我れながら、教へてくれる人には惠まれてゐると思ふ。
 恥づかしながら野生、馬齡を重ねてみるも、何をかひとつの達觀をすることもなく、恥づかしながら現在に至つてゐる。であるからして、只管ら勉強するほかない。野生、まだ放電するほど畜電されてゐない。充電期間だ。
 その充電すらをも怠れば、共に夢を語り、志半ばで幽明境ひを異にした仲間や先輩、或いは今猶ほ獄中に座す同志に顏向けが出來ないのである。

 但し、おぼろげながらも勉強の仕方がこの年になつて少しづゝ解つてきた。不思議な事にそれと同時に面白さも増してきた。
 本年、目出度く定時制高校を卒業した大日本誠流社・森浩二會長が、『この年になつて初めて學問の樂しさが解つた』と云はれたことを思ひ出す。野生の場合は、學校ではなく、先進に教へを乞ひながらの牛歩であるが、森先輩の氣持ちが少しはわかる氣がするのである。
 最近、野生の周りの人達も、この森先輩と同じ氣持ちであるのか、これまでと違つて、道を追及しようとする氣持ちが頗る強い。それは迚も良いことだと思ふのである。
 地方の有志ばかりでなく、都内でも廿代の若者も然り。神奈川縣でも護國鐵拳隊・海法文彦主はじめ現在、國學の研究に熱心だ。

 阿形先生も、おん年七十を越えて、まだ、毎日のやうにあちらこちらへお話を伺ひに行くと云ふ。
 『弘道者何。人能弘道也。道者何。天地之大經。而生民不可須臾離者也』とは、藤田彪(東湖)先生の『弘道館記述義』の冒頭文だ。實は、大變意味の深い言葉である。
 日本にとつて正しい學問に裏付けられたる見識、日本的精神を根幹とした人格の形成、そして勇氣。
 これらをなくして悲觀と絶叫のみで國が變革出來るほど、日本の奧行きは淺くはない。
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by sousiu | 2011-07-11 03:31 | その他

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