時間の窓  

 本格的な炎暑襲來だ。皆さんは如何御過ごしか。
 かう暑いと、冬が懷かしく思つてしまふ。冬になれば冬になるで、夏を戀しく思ふもの。昨年の冬も恰度今頃の季節を待ち望んだものだ。即ち、無い物ねだりといふか、要するにワガマヽ主義なんだな。

 だが時局までをもかうした無い物ねだりやワガマヽで看て、語つては困つたものである。
 個人主義に汚染された觀念の土壤で、かう思ふ、さう思ふ、と云うてもそれでは一向に收拾が附かない。
 表層では右を裝つて居るか、左を裝つて居るかの別こそあれども、骨髓に個人主義や西歐思想、或いは淫祠邪教の病魔を患つては、結局は思想の混亂を招く丈である。社會に對する不滿や不平は盡きることがなく、如何樣に日本が變はらうとも、絶えず民衆の不滿に耳を貨さなくてはならないことになる。個人崇拜の民主主義がいつまでも完成しないのは、この缺陷を内包して居るからだ。

 然るに、我々は我々の立場で時局を語るやうでありたい、といふ考へにも小生は不承知だ。
 時局を睨み、語り、改變の道順を摸索する爲めに必須なるは、「日本人としての正しい目、耳、口」があるかないかだ。
 左翼にはこの場合の「日本人として」の目・耳・口を持たない。持つ氣もない。右翼としての立場や、左翼としての立場や、政治家としての立場なぞ如何でも宜しい。
 從つて、政、官、財に向けて不平を漏らすのであれば、その前に、先づ、おのづから眞正日本人としての相應しい目、耳、口、觀念を養ふ必要がある。要するに、尊皇の精神を固うすることなのだ。

 野生は時局對策協議會の末席に連なつて居る。讀んで字の如く、時局問題の對策を協議する會合だ。
されど我々は時對協の一員である前に、右翼の一人である。而して、右翼の立場を有する前に、日本人である。
 これを忘れて時局のみに眼中捉はれ語らむとすれば、「前進」や「解放」の論調と變はらなくなることも已むを得ない。
 尊皇なき右翼(尤も、彼れらは右翼勢力を勤皇一團と認識してゐないのかも識れないが)のなかには、時局の收拾・對策のみに心を奪はれてゐるものもあるらしい。日本人としての眼力・聽力を失ひ、合理性のみを求めれば、反日左翼と握手して、而、隊伍を組み、運動するはうが效果的の場合ひもあるだらう。だがそのやうな運動では、夏になれば冬を欲し、冬になれば夏を戀しく感じ、永遠に繰り返してしまふ丈だ。

 近年の保守派を稱する人達は、本道に時局問題に詳しい。それは感心する。
 尤も情報化社會なので、それを十二分に活用しないテはない。
 だが、彼れらは、所謂る開放された空間(二次元としての)の窓を覗くことには巧みだが、時間の窓を覗くことには苦手らしい。精々が大東亞戰爭の是是非非までだ。GHQは、彼れらの占領政策に於いて、この時間の窓を堅く閉ざすやう強要したのだな。思へば民族にとつて、これほどまでに殘酷なことはない。だが今は占領期ではない。再び時間の窓が開放されたのであるから、往來しないテもないのである。
 決して國史を繙く作業を惜しんではならない。國史は 皇史そのものだ。「神皇正統記」「大日本史」「日本外史」などを拜讀すれば、正に國史が即 皇史であることを識る。
 古今、眞性の保守派と呼ばれる人で國史を輕んじた人は皆無だ。國史を輕んじた評論家は如何に保守派としての立場を有するとも、皇史を忽諸に付する左翼と大なる相違もなく、云ふなれば腹背ではなく、皮一枚の別だ。それはさうだ。戀闕といふものを全く識らないからだ。

 であるからして野生は目下、眼病を患はぬ爲め、難聽とならぬ爲め、心病に苦しまぬが爲め、遲まきながら猛暑に夏の宜きを識り、嚴寒に冬の宜さを識らうと修行に日々勵まうと思ふのである。
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by sousiu | 2011-07-13 20:10 | 日々所感

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