自己逃避と自己鬪爭  

 オタク生活が始まつた。
 機關紙の執筆作業に時間を縛られる生活である。
 今日、午前中までの成果は一頁分。コツヽヽゆくしかない。

 先日參加した、既報の「歌道講座」で福永眞由美先生から、歌を學び、詠むに就ての留意す可きいくつかの點を御指導いたゞいた。心得る可きことを少からず御教示いたゞいたのだが、そのなかで野生が筆頭とも解釋したものは、
「飾らない、言葉のテクニツクで良く見せようと思はない」
といふことだ。
 三思せば、これはひとり歌の道のみに非ず。機關紙の文章も然り。人間關係も、而、己れの道に對する姿勢に於ても、他ならぬ人生に於ても相通ずることだ。

 先生は、背伸びをしないこと、理屈は云はないこと、格好を付けないこと、と。
 日本人は格好を付けないのに格好良いのが本道に格好良いことなのよ、と仰つた。う~む・・・。目から鱗の落ちる思ひだ。
 とかく、言ひ譯をしたり、自分の身の丈以上の事を望んだり或いは言を發したり、又たは屁理屈をくどゝゞ述べたり、とは自分を成長させる爲めの努力を怠ることの方便に過ぎないのだな。つまり、自己との戰ひを逃避した、云はゞ敗者の常套手段だ。
 先生は、急がずとも、先づはありのまゝの自分を曝し、その自分を認めた上で、且つ努力を怠らないことが大事と説かれた。それが何につけても正しく成長するといふことなのかも識れない。確かに人の年を重ねるといふことは、自分との戰ひの連續をいふのかも識れない。

 上手な人が字餘りを以て更らに歌に深奧なものを加へるらしいが、始めから五七五七七といふ法則から逃げ出し字餘りも可と思ふことはならない、とも教はつた。ふむ。確かにこれも逃避だ。先生曰く、「最初から逃げることを考へずに、收まるやうに苦しんで苦しんで苦しみ拔いてこそ得られるものがある」と。

 野生問ふに、「次囘までに歌を收めねばならぬとの由、もう少し時間の猶豫をいたゞき、御講義のみ拜聽するわけにはまゐりませんか」と。
 先生答ふるに、「覺えるといふことは自分との戰ひ。苦しむことを避けて延ばし延ばしして勝つことは出來ない」と。
 愚問賢答とはこのことだ。かうして文字にすると流石に恥づかしい。汗。

 正直な氣持ちを著はして、それで何か缺けるものがあるとするならば、それは自身の及ばぬがゆゑだ。
 大人になる程に、人は穢れてゆくものなのだらうか。日々、他者に對して、廣汎な意味での義務に對して、道に對して、いやさ自分に對してさへも言ひ譯や理屈を捏ねくり廻して正當化しようとしたり、同情を頂戴しようとはかる人がある。知らず識らず、野生にも、さうした一面があるかもわからない。若しかすれば、社會に出て、他者や世間との戰ひには負けじと思うても、自分との戰ひからは逃避してしまつてゐるのかも識れないな。それによつて蓄積する自己の穢れが、人をして自己矛盾や葛藤等の多くを生ぜしめるのかも識れない。大人になるにつれ、人交際や世渡りのテクニツクを覺えて、それを驅使することで利口だと考へるのは大きな間違ひで、實は幼な子にも劣る馬鹿になつてしまつてゐるのだ。福永武兄の、幼いころの歌を拜聽したが、確かに美辭麗句は皆無で、されど何やら感じるものがあつた。

 機關紙を執筆しながら先日の「歌道講座」を思ひ返してみたことを記した。
 野生が土曜日に、機嫌の宜くなつた理由は、目から鱗が落ちた爲めだ。
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by sousiu | 2011-07-18 18:06 | 日々所感

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