これまでの價値觀との訣別  

 野生は嘗てのバブル期に、何らその恩惠に授かつたものではないのでよくわからないが、湯水の如く金が湧き出て、爾して湯水の如く金が遣はれるあのやうな異常な時代に、多くの人達が恰も藥物ならぬ享楽の中毒患者の如くなつてしまつたと聽く。
 欲しくもないブランド物を揃へてみたり、疲れてゐるのに高級クラブへ通つたり。銀座のクラブで一日百萬圓遣つて歸へりのタクシーで財布をみると、「あれれ、まだ五十萬圓殘つてた」と、かういふ人も珍しくなかつた、と。
 かうした時代に、『金權全能、黄金萬能の社會の根を枯らさねばならない』などと訴へてみても、政治家は云ふまでもなく、國民の中にも耳を傾ける人は尠い。尠いといふよりも僅少といつた方がより正確であらう。
 人は享樂に魂を奪はれてゐるとき、思想を重んじることが得てして六ケ敷くあるやうだ。更らに深刻なことは、かうした毒々敷くも華やかなる時代がいつまでも續くと信じ、或いは願つてしまふといふことだ。

 だが、今の日本人は違ふ。固よりバブル期は去つて久し。だがそれよりも何よりも、三月大變を經驗し、華やかなる時代は續かぬどころか、死生巖頭の淵に立つた人すら尠くない。つまり享樂が身近である時代は終はり、死を身近に感じる時代が到來したのである。今猶ほ、天災は息む能はず、人災の筆頭と目す可き放射能汚染も已然として擴大したるに於てをや。


 さういへば自衞隊出身者の鈴木田君が云うてゐた。自衞隊でも落下傘部隊の諸君は頗る意識が高いのだ、と。
 落下傘部隊は稀とは雖も、訓練中に死することがあるといふ。さういつた死と隣合はせの環境の中で毎日を送る人は、必然として己れの生命に就て深く考へざるを得ず、國家と自分との關係を理解せねば務まらないのかも識れぬ、と。


 死を身近に感じると人は享樂の中毒から覺めざるを得ない。
 曾子の云ふ『人のまさに死なんとするや、その言や善し』(論語)などゝ勿體ぶつた言を出すまでもなく、明日死する運命にある人が、殘された最後の一日に金儲けなぞしない。人と見榮を竸ふこともない。況んや最新のブランド物を調べて欲しがることもない。天災が直撃した被災地で、帽子から靴までブランドで身を固めて、それが一體何の價値を持つといふのだ。
 死を身近に感じるといふことは生を感じるといふこと。このやうに覺醒された民にとつて、虚飾の持つ力なぞあまりにも乏しくある。
 この先、日本人は思想や信仰の渇望者となるであらう。
 その時、俗に云ふ需要と供給の關係は成立するのであらうか。當然、望まれざる思想や宗教の跋扈もあるだらう。眞に皇國の中興を志す者は、出自のあやしむべき教へは出來る丈、早期に流産せしめねばならぬ。だが、それ丈では駄目だ。
 近未來的に、日本の純乎とした思想を唱へる者は試されるときが來る。保守派が、既成の體制を批判するものではあつても、導く力に缺けるやうでは、民主黨が自民黨を倒すまでの存在意義しか無かつたことゝ同質のものである。
 須く、志ある者は己れの尊皇の基礎を固めて、固めて、そして固める可し。


 さういへば、亞米利加東部で廿三日、マグニチユード五・八の地震が起きて街がパニツクに陷つたとか。彼れらにとつては九十八年振りださうで、嘸ぞ恐怖し、一瞬でも頭に「死」が過つた人とて少なくはあるまい。向かうでは震度といふ單位が用ゐられてゐないので解らないさうだが、どうやら日本でいふ震度三、四に相當したのださうだ。日本ではそれくらゐの搖れは日常だぜ。子供だつて泣かないくらゐ、みな強くなつてゐるよ。えつへん。
 米國人も「大國」といふ虚飾をそろゝゝ捨てたはうが宜しいな。
[PR]

by sousiu | 2011-08-25 01:30 | 日々所感

<< 殘暑候 皆樣御息災に御座候哉   おはやう御座います >>