先人の曰く、努力すれば成るもの也、と。

 今日は、またゝゝ歌を詠まうと、常に歌のことばかり考へてゐた。
 まだ習ひたてなので當然なのであるが、これが本當に六ケ敷いものなのだ。
 福永眞由美先生は、おほいに惱んで苦しむことは、自分との戰ひであり、それを乘り越えて初めて得るものがあると御教へ下さつたが、何せ四十路われ、だ。野生の胡桃のやうに固くなつてしまつた腦味噌では、ちと不安である。

 されど、野生の好きな言葉は『求學求道』。ヘコたれずに頑張らねばならない。
 野生は、かうした時、本居宣長先生の『うひ山ぶみ』の一節を拜讀し、野生の勵みとしてゐるのである。


●本居宣長大人、『宇比山踏』に曰く、
『詮ずるところ學問は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、學びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど學びかたよくても、怠りてつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生れつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有物也、又晩學の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也、されば才のともしきや、學ぶことの晩きや、暇のなきやによりて、思ひくづをれて、止ることなかれ、とてもかくても、つとめだにすれば、出來るものと心得べし

 拙きながらも譯文すれば、
「詰まるところ學問は、たゞ年月長く倦まず怠ることなく勵み努めることが肝要であつて、學び方はどの樣でも宜いもので、それほど拘はるところではない。如何ほど學び方が宜いにせよ、努力を怠れば功は無い。又た個々の才があるのと無いとによつて、其の功は結構異なるものだけれども、才不才は生まれつきのものなので、努力では及ぶものではない。しかし大抵は、不才の人と雖も、怠らず努力すれば、それ丈の功は成すものだ。又た、學問を遲く始めた人でも努力し勵めば、案外に成功することもある。又た、暇の無い人でも、案外、暇のある人よりも功績を成すものである。だから才能の乏しい事や、遲く學び始めた事や、暇の無い事を理由として、學問に對する思ひを諦めて止めてしまつてはいけない。兎に角、努力すれば、學問は出來ることを心得る可し」といふことになる・・・・のだと思ふ・・・。

 先進は、いづれも嚴しく、そして優しい。
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by sousiu | 2011-09-28 00:04 | 先哲寶文

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