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從四位 大橋訥菴先生に學ぶ  

 體調が芳しくなく、またゝゝ更新が遲れてしまつた。
 いつまでも若い積もりでゐるものゝ、野生も本年は大厄。あつちが痛くなればこつちが痛くなるはで、集中力も缺けてゐる。
 これでは日乘ではなく、週乘だ。・・・面目ない。

 今週は大橋訥菴先生の『闢邪小言』を拜讀。大橋訥菴先生は幕末に於て、野生の頗る關心を懷かずにはをられぬ御一人である。『闢邪小言』は、野生の豫てから是非、一度拜讀したいと思うてゐた書籍にて。今度び、比較的安價で入手する機を得たので、雀躍し、一氣に拜讀した。
 訥菴先生は云ふまでもなく所謂る急激な尊攘家。幕末の尊皇攘夷運動に少からずの影響を與へ、所謂る「坂下門外の變」で著明な先覺の士である。

●文久紀元辛酉九月、大橋訥菴先生の上書した意見書に曰く、
『~前略~ されば當今の朝廷は、御微弱に似て實は強く、關東の幕府の方は、外面強大に似たりといへ共、其實は人心離れて、衰弱殊に甚だしく、朝廷は天の眷顧を得たまふて、勃興あるべき氣運に向ひ、幕府は皇天に見離されて、斃るるに近き時節なれば、少しも猶豫狐疑するに及ばず。天下の義士を奮興せしめて、天祖へ報答ある可きことなり。今まで微弱にましましつる、天朝の御威光も、是より古に復せられて、寶祚の無窮に至らんこと、瞭然として火を觀るが如し。誠に愉快のことに非ずや。是某が巨罪を忘れて、かゝる鄙論を艸定し、若し芻蕘に詢ひ玉ふの時もあらば、速に身を闕下に致して、策を獻ぜんと欲する所以なるのみ』と。


○蘇峰徳富猪一郎翁、昭和九年七月卅日『近世日本國民史 文久大勢一變上篇』(明治書院發行)に訥菴先生を評して曰く、
大橋訥菴の眼中には、固より幕府なし。彼は決して公武合體など生ま温き意見にて滿足す可きではなかつた。彼は倒幕と攘夷を以て、其の旗幟としてゐる。其の目的が攘夷にありて、其爲めの倒幕である乎。將た倒幕の爲めの攘夷である乎。恐らくは彼の本志は前者であつたであらう。彼は心からの攘夷論者であつた。然も同時に彼は勤王論者であつた』と。



 訥菴先生は單に攘夷の氣勢を四方に發し、啻に義徒の蹶起を煽動せんとするものではなかつた。
 寧ろ血氣にはやる義弟、淡如翁をはじめ宇都宮、水戸の義士、他、草莽志士の老中安藤信正要撃計畫の軍師に推さるゝも是れを再三固辭してゐる。曰く、『時期尚早、いづれ朝廷から、攘夷の大詔煥發せられんこと遠くはあるまい。その際には諸君は淡如(義弟)を主將として、宮の御供いたされよ。我自らは上京して、西國の諸大名に遊説し、京都に於て義旗を擧げん』と。訥菴先生の本旨は、京都に上書し、攘夷の大詔が煥發されて羲兵を擧げることであつた(近世日本國民史、仝、參考)。
 されど騎虎の勢ひ止まる能はず。訥菴先生、同志の相次ぐ必死懇願に、遂に安藤要撃の斬奸趣意書に筆を加へ、同盟規約書を作つたことが禍因となり、幕吏の網に罹る。而して、同志の動搖と憤慨は、「坂下門外の義擧」へと行き著く。
 結果的にみれば、時代の大變革といふもの得てして、橋本景岳先生や吉田松陰先生、そして訥菴先生のやうな犧牲者の存在が必要とされるかも識れない。

 さて。『闢邪小言』は、元(總論)・亨(西洋は窮理を知らず、西洋は天を知らず)・利(西洋は仁義を知らず、西洋は活機を知らず)・貞(或問)の四卷から成り、終始只管ら西洋を罵倒したものである。加へて、當時の儒學者、大家が、西洋かぶれしてゐることを憤慨して、これをも罵倒してゐる。
●思誠塾 大橋訥菴先生、安政四年丁巳春王正月『闢邪小言』(江都思誠塾)に曰く、
『近世は西洋の學と云もの、盛に天下に行はれて、人の貴賤となく、地の都鄙となく、拂郎察(ふらんす)の、英吉利(いぎりす)の、魯西亞(をろしや)の、共和政治のと言ひ噪はぎて、我も我もと其學を治め、競ふて戎狄の説を張皇するは、聖道の爲めにも、天下の爲めにも、彗孛にまされるの妖■(「上」薛+「下」子=げつ、禍ひの意なり也)と云べし。されども一人も其邪説たるを辨明して■(手偏+「右上」立+「右下」口=ほう)撃攻討する者なく、滔々として日に其途に趨くは、歎すべく憂ふべきの至にして。さて其説を奉する輩の無識なるは深く憫れむべきことなり。其初は疇人醫師の類など、洋説の新奇なるに喫驚して、彼れ是れと唱へつる程の事なりしに、後は次第に滋蔓して其風武士に浸淫し、兵法も器械も、西洋の制ならでは實用に非ずなど云ふほどこそあれ。やがて儒生と號稱して悍然と百家の上に位する者どもゝ、其妄説に雷同して、彼徒の狂■(「左」“稻”の右側+「左」炎=解讀不能)を助くる輩のあるは、誠に如何なることにや。~中略~ 今の西洋の學の如きは、邪誕妖妄の尤なる者にて、其説天下に盛なれば、生民の耳目を塗り、人を汚濁に溺らして、自然と社稷の命脉を壞り、聖人の大道を榛蕪せしむることなるに。それにも心の附かざるは、今まで多年の間、何事を講求して、聖學と思ひつるかと其識見の程も量られて、憫笑嗟歎に堪へざる也』

『然るに今の西洋は、諸邦を呑噬蠶食して、豹狼に均しきのみにはあらで、久く異志を蓄へて、覬覦の念ある賊にあらずや。覬覦の念ある賊なれば、即ち國家の大讐なり。假令ひ戎狄に非ずとも優恕すべき理りあることなし。況てや純然たる戎狄なれば、苟も丈夫たらん程の者は、常に敵愾の心を懷きて、彼(西洋戎狄)を唱ふるだも、口を汚すと思ふべきに、今は冠履を倒置して、戎狄大讐を惡むことを知らず。彼れが説を尊崇して、甘んじて腥羶の奴隸となり、或は彼が服を服し。或は彼が言を誦し。或は彼が名を戴き。彼が説を張皇して、揚々として恥ざるは、心に於て安しとするや、それを安しとする心なれば、廉恥の種子の絶えたる者にて。化して異類となれるに近し』と。
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 大橋訥菴先生の痛罵は、單に西洋戎狄のみに非ず、歐風邪説のみに非ず、これを心醉し聊かも疑はない幕府要人や學者に激しく向けられてゐる。訥菴先生の思誠塾が、彼れらからみて不逞浪士の巣窟と要注視され常に監視されてゐたのも決して理由なきものとしない。
 訥菴先生の西洋に對する罵倒の内容は暫く措くとして。野生が訥菴先生の攘夷論を拜して時下の排外思想や運動に與みする可からざる理由を茲に掲げんに、先人の過激な攘夷論者は訥菴先生のごとく、皇國の本領の涜れることを憂ひてのことであつたことに對し、今日流行せる攘夷と自稱する思想運動は、全員とまで云はざるもその生ずる可く動機が國益死守であるとか、權利擁護であるとか。つまり、他國にみられる排外思想と何ら大差なく、皇國固有の思想や眞面目より生じた攘夷論、即はち、他國にあり得ざる動機からなる固有の攘夷論ではないのである。往年來の支那や、嘗ての獨逸の如きも民族淨化、排外思想は鼓舞された。しかし、皇國の攘夷には、先人の玉文や和歌に鮮明に記される如く、戀闕の情に溢れてゐる。この“戀闕”こそが、日本人の日本人たる所以であり、この情によつて必然として沸き起こる眞なる攘夷運動の澎湃を熱祷してやまない。

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by sousiu | 2011-10-22 22:08 | 先人顯彰

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