河上彦齋先生 

 過激な攘夷家と云へば、河上彦齋先生を忘れることが出來ない。
 肥後の彦齋先生を記する忘れるならば、もつこすゞきだ君から苦情が寄せられてしまふ。
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 勝海舟翁の談話に曰く、
 『澤山な刺客に會つたが、河上彦齋丈は恐ろしかつた』と。如何に當時の要人をして恐怖せしめてゐたか窺ひ識れる。

 亦た、河上彦齋言行録をみるに、
 『彦齋の長州に在る時、桂小五郎と一見舊知の如し後、彦齋、小五郎と京都に會し、共に手を握つて時事を談す。小五郎説稍々攘夷の爲すべからざるを云ふものゝ如し。彦齋忽ち髮立ち眦裂け直ちに起つて(怒つて、乎)小五郎の鼻を捻み大喝これを叱して曰く、足下も此説をなすか、と。小五郎は只默然として已むと明治四年小五郎朝命を奉して歐洲に航するや竊かに玉乃世履を招きて之に託して曰く、足下肥後の藩士河上彦齋と云ふ者を知らずや。彼洵に一世の豪傑と云ふべし。然れども今猶攘夷の説を唱へ頑として動かすべからざるものゝ如し。思ふに他日國家に■(不明)毒を流し文明の針路を支ふる者は別人にあらすして必す彦齋ならん。足下願くは吾の未だ歸朝せざるの前に於て之を除くの計をせよと。世履も亦之れを然りとして退いた、と』とある。括弧及び括弧内、野生による。

 彦齋先生は狂人のごとく、「人斬り彦齋」として恐れられてゐた、と傳へられてゐるが、果して奈何。



●澤田和一氏、『死もまた愉し 勤皇志士河上彦齋の生涯』(昭和十七年八月「長谷川書房」發行)に曰く、
『文久、元治から慶應年間にかけて、彼の手にかゝり最期を遂げたものは、かの佐久間象山を始め十數人に上つてゐるといはれてゐる。そこで、世間の一部では、東の近藤勇(徳川方、新選組の隊長で後官軍の手で斬らる)に對し、西の中村半次郎(後の桐野利秋であり、陸軍少將となつたが西南の役で戰死)とわが河上彦齋を『殺人三人男』と稱し、或はまた薩摩の田中新兵衞(姉小路暗殺の嫌疑を受け自殺)と土佐の岡田以藏(武市半平太の門人で獄中で同志の祕密をしやべつて沒落したといふ)それに河上彦齋を加へて、殺人の三名人といひ、さらにまた河上彦齋に對しては「人斬り彦齋」などゝいふものがあるが、それは大衆小説などが興味本位に取扱つただけのことであり、彦齋は他の四人はいざ知らず、故なくして人を斬るやうなことは一度もなかつた。尊王の大義を阻止するもののみを狙つたのである』と。括弧及び括弧内、原文マヽ。

 彦齋先生は、單なる狂犬にも似た攘夷家ではない。正しく尊皇攘夷の士であつた。


●太田天亮翁、『維新史料』(「野史臺」發行)に曰く、
『彦齋、人と爲り白哲精悍、眼光人を射る躯短にして齒出つ。人に接する恰も婦人の如し。幼にして奇氣を帶び常に謂て曰く「大丈夫雄を亞細亞の中央に稱へずんば當さに獄に倫龍の府に繋がれんのみ」と。其氣宇の豪邁斯の如し』と。

●元治元年七月十一日、祇園社前の榜にある斬奸状に曰く、
『松代藩 佐久間修理
此者元來西洋學を唱ひ交易開港之説を主張し樞機方へ立入 御國事を誤候大罪難捨置候處 剩へ奸賊會津彦根二藩に與同し中川宮へ事を謀り恐多くも九重御動坐 彦根城へ奉移候義を企 昨今頻に其機會を窺候大逆無道 不可容天地國賊に付即今日於三條木屋町加天誅畢
但斬首可懸梟木に之處白晝不能其儀者也
元治元年七月十一日
皇國忠義士』
(この者、元來西洋學を唱へ交易開港の説を主張し、樞機方へ立ち入り、國事を誤り候大罪捨て置き難く候ところ、剩へ奸賊會津・薩摩二藩に與黨し、中川宮へ事を謀り、恐れ多くも九重を御動坐、彦根城に移し奉り候義を企て、昨今頻りに其の機を窺ひ候大逆無道、天地に容るゝ可からざる國賊に付き、今日三條木屋町に於て、天誅を加へぬ。但し斬首して梟木に懸く可きのところ、白晝其の儀に能はざるものなり)

●吉武定夫氏『河上彦齋』(昭和二年三月「河上彦齋建碑事務所」發行)に曰く、
『先生が象山を暗殺したのは單に開國論者と云ふばかりでなく、遷都を企て討幕の計畫を破壞したのが主因であつた』と。


●彦齋先生、林櫻園先生の門に入りて皇學を修め、感激して曰く、
『國體の大本に通ぜざれば敬神尊王の道を全うするを得ず。敬神尊王の道全うして始めて世道を興し人心を正しうし以て邦家の治平を永遠に保維することが出來るのである』と。


 さて。慶應四年正月十五日、明治天皇は御年十七歳にして元服を加へ玉ひ、新政府の組織成ると共に、施政の大方針を天下に宣し給ふた。而して同年三月十四日、紫宸殿に御しまして、維新五箇條の御誓文を御宣誓あらせられた。彦齋先生この時は獄中。

●澤田和一氏は『彦齋若し自由の身であつたならば(慶應四年三月十四日の時)、欣喜躍雀として錦旗の下に大いに翼贊し奉り、幕軍を惱ましたであらうのに・・・。獄舍にある彦齋としてはどうすることも出來なかつた。只獄卒どものさゝやきを聞いてはこの空氣を知り、端然として 皇居の方をふし拜み、大業の完成をひたすら祈るのみであつた』と記してゐる。

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 犧牲者は時代變轉の前にばかりあるものではない。變轉後にもあるのである。
 皮肉にもかくもおほくの、尊皇攘夷を唱へる先達によつて、皇國の中興は遂げられ、今又た再びこの一大事業を必要としてゐる。
 これから栃木縣へ向かはねばならぬので、尻切れ蜻蛉の感があるが、彦齋先生の攘夷運動に就ては他日又た、機を得て愚論を記したく思ふ。
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by sousiu | 2011-10-23 14:24 | 先人顯彰

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