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皇國之農事  

 菅原兵治翁の『皇國食糧觀』を拜讀。

 ●翁、同書(昭和十九年十二月「旺文社」發行)に曰く、
 『こゝに一つの興味豐かな寓話を擧げることゝしよう。

 ある時、手と足が云ふには、
「吾々がいくら働いて旨いものを取つて來ても、これを食ふのは口だけではないか。吾々は結局、骨折り損のくたびれ儲けに終るんだ。ひとつ口に物を送ることを止めようぢやないか」
 すると眼も耳も鼻もこれに贊成した。ところが口は暫く口を閉ぢて考へて居つたが、やがて口を開いて
「自分ははじめは困つたと思つたが、考へて見りや俺も贊成だ。といふのは、眼が食物を見附け、耳が在り場所を聞き、鼻がそれを嗅ぎ附け、足がそこに歩いて行つて、手がそれを取つて俺のところに持つて來てくれて、俺は一生懸命それを噛んで居るが、漸くうまい汁が出た頃になると、ごくりと咽喉が呑み込んでしまつて一つも殘りやせぬ。結局それは、寒い風にも當らず、暑い陽にも當らない腹の中の胃の腑の奴が食つてしまふのである。本當に苦勞せずにうまいものをまんまと食つてしまふのは胃の腑だけである。だから俺も、考へてみれば骨折り損のくたびれ儲けなことは諸君と同樣であるから、俺も諸君と共にものを食ふことを止めよう」
 かういふわけで、まあ食糧の供出及び輸入の拒否運動みたいなことを始めた。ところが、三日經ち、四日經ち、一週間經ちして居る内に、次第に眼が霞んでくる。耳がぼんやりしてくる。手足が冷たくなつて痺れてくる。どうもこれは變だなといふのでよくみんなで調べてみると、食物を攝らないための榮養不良から來る全身衰弱の現象だといふことが分つて、みんなが前非を悔いて、ものを攝り、ものを噛むことにしたといふことである。

 これが國家と、國民一人々々との關係--即ち全體と個人との關係--ではあるまいか。なるほど生産農民が自らの不自由を忍んでも、食糧を供出するといふことは、相當つらいことには違ひがない。しかしだからといつて、それを拒んで供出しなかつたらどうなるのであらうか。第一線の軍人は勿論のこと、飛行機を造る人々も、船を造る人々も、彈丸を造る人々も、腹が減つては戰さが出來ぬといふが、本當に腹が減つては仕事が出來ぬといふことになるであらう。さうすると直ちに日本國家全體の戰力が弱つてくる。その結果、若しもアメリカの兵が、假りにわが神州日本を侵すやうなことがありとしたならば如何であらうか。あの黒人に對してはリンチを行つて、これを嬲り殺しにして喜び、病院船を撃沈して得々然たる慘虐飽くなき鬼畜の如き彼等のことであるから、何を仕出かすか分つたものではない。現に彼等は地球上に於て最も恐るべきは日本民族であるが故に、上陸したならば日本の男子といふ男子は一人殘らず虐殺するなどゝ豪語して居るではないか。そして、現在の太平洋上の戰局は、必ずしも安易に樂觀のみを許さぬではないか。
 そこで、この際、若し、目前の自分の口のみが可愛いといふので、米俵を縁の下に隱したり、押入れに藏つたりして、供出を免れようといふやうな不心得者が多くなつて、國民の食糧に不足を來たし、腹が減つては戰さが出來ぬ、腹が減つては仕事が出來ぬといふことになり、最惡の場合に陷つて、アメリカ人の前述の如き仕打ちに遭ふやうなことが若しあつたとしたならば、その時に至つて、これは惡いことをした、かうなるならば、あの時に出せばよかつたなどと地踏鞴踏んだところでもう後の祭であらう。私どもはこんなに、願はくばうんと食つて貰つて、そしてうんと働いて貰ふことこそ、國家を強くし、隨つて吾々國民一人々々も幸福になる最も近道であることを悟り得るであらう。これが國家全體と個人との一體的な協同原理的説明から來る結論である。
 かういふものゝ考へ方、ものゝ説き方は、日本道の本來に根差した「大年の忠誠」を全うするといふやうな説き方に比して、遙かに萬人の耳に入り易いものであるに違ひない。しかしいくら入り易いにせよ、この考へ方は國民相互の横の平板的關係以上一歩も出ないものであつて、日本國體に於てはこれだけでは滿足出來ない。あくまでも食糧供出の道念は 上御一人に連なりまつる關係から「たなつもの」を すめらみことに「よさしまつる」ことにあらねばならぬことは、少くも指導者層に於ては深く腹中に銘じおくべきことであると信ずる』と。

 菅原翁は、日本的農事の道念に就て、以下に説く。曰く、
日本臣民の農業は、天照大神の神勅の御旨を奉じて、その收穫の一切を擧げて、これを天照大神の皇子、從つてその御延長にまします萬世一系の 天皇にまかせまつることにその目的が存すべきである。かくて食糧供出の道念は、まさにこの「齋庭の穗」の神勅の遵奉にあるべきであると信ずる』と。


 上記抄録は、昭和十九年のものであるから、その時代を察するに必然、國家國民總動員の極はみにあつたことであらう。いさゝか長く思はれる前置きも、死力を竭くせし時代を背負ふ人士の當然たる可き掛け聲であつた。
 されど、時代背景を差し引いて拜讀しても、翁の農業に對する道念は容易に解することが出來る。

 今日、日本の農事そのものに就て、吾人は考へ改めねばならぬ點がおほくある。
 又たしても金毛九尾の狐に嗾されるまへに、我が農業は本來如何なるものか、先づ再認識せねばなるまい。

●大橋訥庵先生『闢邪小言』總論に曰く、
『我が中國(なかつくに)の士大夫は便利不便利に目を屬せず。唯だ義不義をこそ論ずべき。 ~中略~ 先づ士君子の威儀を愼むは奴隸を學ぶの便利には如かず。農夫の田畝に服するは商賣となるの便利には如かず。君父に事へて力を竭くすは世を遁れて桒門に入るの便利に如かず。戰陣に臨て鬪死するは敵に降て生を保つの便利に如かず。其他、更に一二を言はゞ恭謙退讓は不便にして汰侈放縱は便利なり。儉素質朴は不便にして豪華奢麗は便利なり。冠弁端坐は不便にして裸程箕踞は便利なり。肩衣袴は不便にして腹掛股引は便利なり。苟も理義の當否如何を論せず、唯便利のみをよしとせば、是等も不便をふり棄てゝ便利の方に從ふべしや。然らば人道は滅裂して、世は豹狼の郡となりなん』と。


 民艸も又た、皇國農事の道念に觸れらむとする。
 ○仲村之菊女史の『仲村之菊の闘魂な日々』↓↓↓
  http://yaplog.jp/yamato00/archive/730

 慶應大學の某教授はTPPを支持し、「守りの農業」から「攻めの農業」への轉換を主張する。氏は一度たりとも農事に手を觸れたことがあるのであるか。野生は專門でないこともあるが、抑も、利害、損得、戰略云々の商業的見解で農事の是非を語らむとする連中は、好かん。


●賀茂真淵大人
  大御田の 泡も泥も かきたれて とるや早苗は 我が君の爲

●大中臣輔親大人
  山のごと 坂田の稻を 拔き積みて 君が千歳の 初穗にぞ舂く

by sousiu | 2011-10-29 21:25 | 小論愚案

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