前王廟陵記  

●『勤王文庫 第三集 山陵記集』(大正十年七月廿日「大日本明道館」發行)の序に曰く、
『帝王の葬、山の如く、陵の如し、故に山陵といふ、とは、律の謀大逆の疏義に出て居る説で、今日現存の山陵を見ても、實に此説の通で、往昔朝廷に於て、如何に帝王の葬を重んぜられたかゞ、推知せられる。隨て、古昔の陵制は嚴重なもので、帝陵は申すに及ばず、皇族の御墓、さては外戚の墓さへ、守戸陵戸を置いて、守護せしめ、朝には諸陵寮を設けて管理せしめ、又年終毎には荷前奉幣の制もありて、陵墓其物も中々宏大なものである。然るに世移り物替り、政權は朝家の手を離れ、社會の風習も大に變化を來し、剩へ足利氏の季世、苅菰と亂れて、神宮さへ、皇居さへ、頽破するも、容易に修理出來ざる程で、懷ふも語るも涙の種となる有樣、陵墓の事などは、何處に在るやら、如何の状態に成果てたやら、更に知る人も無いやうな次第で、誠に恐懼の至で有つた。
 然るに大運轉換と言はうか、窮すれば即ち通ずと申さうか、元和寛永の頃より、世態漸く太平に歸し、國民も平和的氣分を味ふやうに成つた。時勢の暗遷默移といふ事は、恐ろしいもので、諸種の廢典も復興せられるやうになり、長い間、世人の念頭に浮ば無かつた山陵の事なども、逐々注意を惹くやうになり、松平直政や、曾根吉正の如く、荒陵を修理する人もあり、又黒川道祐などの如く、墳墓調を爲す人も現はれて來た。元祿時代と言へば、偃武以後既に七八十の星霜を經て、平和的氣分は益々濃厚となり、文藝も復興し來り、從來兔角圓滿を缺いて居た朝幕の御間柄も大に緩和せられたのも、一原因であらう歟。民間のみならず、幕吏の間にさへ、山陵の事を憂ふる人が輩出した。松下秀明や、細井知名、知愼兄弟の如きは、其翹楚である』と。



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●元祿九年、平安城、西峰山人 松下見林翁『前王廟陵記序』に曰く、
仁賢天皇の聖敕に曰く、忍んで陵墓を壞らば、誰を人主として、以て天の靈を奉ぜんと。藤原ノ吉野の諫言に曰く、山陵は、猶宗廟のごとし、縱し宗廟無くんば、臣子何の處をか仰がんと。誠なるかな其の訓や。是を以て、謀つて山陵を毀るは、八虐の一に處す。律の原(ゆる)さゞる所。兆域陵地陵戸守戸を志し、兆域の内には臣庶を■(草冠+死+土=ソウ)埋し、及び耕牧樵採することを得ずとは、令式の急務なり。荷前祈祷の禮、其の遠を追ふの心、貴ぶ可く法る可きのみ。此の如く善政備れりと雖、盜賊陵を發(あば)く者絶えず。況んや、 皇綱紐を解くに及び、諸陵司職を廢して、人をして犁きて田園と爲し、壑に完柩無からしむるに至る。余、微賤なりと雖、之を思ふ毎に涙を草莽の袖に沾す』と。見林翁の悲憤、則はち忠良臣民餘すところなく共有するもの也。恐懼に堪へぬ心、必竟するに在朝在野の別はなし。

●『前王廟陵記 卷之上』、畝傍山の東北(うしとら)の陵は畝傍橿原の宮にあめのしたしろしめせし 神武天皇の項に曰く、
東北の陵は百年ばかり以來壞ちて糞田と爲し、民其田を呼びて神武田と字す。暴汚の所爲痛哭すべし。數畝を餘して一封と爲し、農夫之に登るも恬として怪と爲さず、之を觀るに及びて寒心す。夫れ 神武天皇は、神代草昧の蹤を繼ぎ、東征して中州を平げ、四門を闢きて八方を朝せしむ。王道の興、治教の美、實に此に創まる。我國君臣億兆當に尊信を致すべきの廟陵なり。澆季此に至る、噫哀い哉』と。聽くにも讀むにも耐へ難し。見林翁による、山陵の、明らかにせんとするの志、後世の吾人をして猶ほ感謝するところありとせねばならぬ。

●仝、高野の陵は平城の宮に御宇せし 稱徳天皇の項に曰く、
『大和國添の下の郡に在り。兆域東西五町、南北三町、守戸五烟。
續日本紀に曰く、神護景雲三年八月丙午、高野天皇を大和の國添の下郡佐貴の郷高野の山陵に葬ると。
今按ずるに、御陵山の西北の陵、若しや是か。往年、人有り此陵を發き、陵中の財を奪ふの黨身腫れ苦死す。觀者恐れて財を本の處に還すと云ふ』と。尤、神罰なり也矣。

●『前王廟陵記 卷之下』、二條院の項に曰く、
『~中略~ 二條院の御墓は、舟岡の北の麓に在り。所謂香隆寺の艮の野といふは是か。上に五重の石塔有り。近世茶を嗜む千の利休九輪を取りて、己が塔と爲し、聚光院に立て、又塔の穿■(上「穴」+下左右「瓜」)める處を手水鉢と爲す。幾くならずして利休禍に逢へりと』と。是れ又た利休の切腹、梟首、成る可くして成つた末路と看取す可し歟。



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 愚案。『前王廟陵記』によつて端緒を得た山陵の研究は、以降、細井知愼翁著『諸陵周垣成就記』、昨日述べた蒲生君平翁の大著『山陵志』、本居宣長翁著『菅笠日記』、伴林光平翁著『野山のなげき』、北浦定政翁著『打墨繩』、谷森善臣翁著『山陵考』などゝゞの名著大作を世に呈することゝなつた。
 當時、交通手段に惠まれてをらず、無論、道路の整備も造されてをらず。且つ乏しき情報の中で御歴代御陵の實地踏査するといふのは、至難を極める業であつたこと考へるに六ケ敷くない。深山幽谷、山道も凡そ獸道の如くあり、外燈なぞある筈も無し、車はおろかコンパスすら無い。研究が進むに從ひ、前王廟陵記をはじめ、記載された御陵に誤りあることも發見されてゆくのであるが、それは寧ろ當然と云はねばならぬもので、見林翁も地下で諒としてゐるに違ひない。
 固より野生は、地理や考古學に就ては無智同然であり、よつて山陵に向けられた先人の努力と研究から學ぶことゝは、その動機たる可き、皇祖皇宗を仰ぐの志であらねばならないとする。


●『山陵記集』序の末尾に曰く、
『終に一言して置かねばならぬ事は、是等の著書は皆單に山陵其物を學術的に研究するといふのではなくて、畏くも宗廟に準ずべき、歴代の帝陵が、徒らに荒廢を極め、或は耕されて田畠となり、僮僕牛馬に汚され、或は棺槨の、盜兒に破壞せられて、露出すといふやうな恐れ多い状態にあるのを憤慨して、自ら措く能はず、陵墓修理の急を絶叫して、天下に訴へたので、其消息は書中に散見する。之を讀む者も、山陵の智識を得ると同時に、勤王心を鼓舞策興せらるゝことであらう』と。




 餘談ではあるが、昨日は愛倭塾の山口秀明會長が御内儀と共に來訪。
 また變はつた人が來た。御内儀はとても素晴しい人なのだけれど。
 因みにヤフーの辭書で『奇人』と調べてみると、奇人とは、
 一、性格や言行が普通とは異つてゐる人。變人。
 であるとの由。
 先日、時對協の總會で、山口秀明會長の副議長再任が決定した。
 時對協は奇特な人が多い。その副議長たるの山口會長、單に偏屈者としての奇人であるのか、それとも蒲生君平先生の如き偉大なる奇人であるのか、憚りながら興味の盡きないところである。愚案、變な名前を名乘つて可愛い後輩の日乘を荒してゐる場合ではない。
 
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by sousiu | 2011-12-04 14:53 | 良書紹介

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