これだけ書くなら「天地無辺」やれ、と?

 昨日は横濱で行はれた、先輩某氏の忘年會に參加。
 大行社諸兄も來られ、そのなかに木川君がをり、彼れと時對協忘年會に於て、中斷された意見交換の續きを行なつた。
 野生は、「民主主義」を全面否定してみても其の後の展開をみないことから、先人がやつてのけた、儒教の日本化に倣ひ、一層のこと民主主義を進化させて日本化を達成すべきとの意見だ。
 木川選手は民主主義を政治の枠内に止め、活用し得るところは善用す、併しあくまでも個々の觀念から社會に至るまで擴大的に利用し且つ影響されてはならない、といふ意見だ。・・・違つたかな。
 勿論、御互ひに試論の域を出でぬものであつて、進んで研鑽してゆかねばならない。だが、未熟なれども、かういふ意見交換は非常に樂しい。他には崎門學や荻生徂徠の話しなどで盛り上つた。
 あツといふ間に二時間が過ぎてしまつた。會場の皆はゲストである歌手や物眞似に耳目を貸して、又た拍手を投じてゐた・・・やうな氣がする。冷靜に考へてみればクラブで行なつてゐる忘年會に、淺見絅齋先生や荻生徂徠、民主主義の話に夢中になるつて、今思へば、一寸、ヤバいだらう。
 だが、ヤバいのは木川君だけであつて、野生は全然ヤバくない。何せ、この話しを挑んできたのは彼れだからだ。野生は付き合うたに過ぎない。さう云へば先日、某所で三澤浩一先輩が仙臺市の坂田君と野生を民族派の變人と云うた。だが三澤先輩は誤解してをられる、坂田君のことはともかく。
 昨日にしても、慥かに第三者から見れば、野生が木川選手に六ケ敷い話しを付き合はせてゐるやうに映つたかも識れない。けれ共、耳を澄ませば、彼れの方が野生をリードしてゐたこと何びとにも諒解せられるであらう。飛車に睨まれ、出來得可けんば、先輩の面目なぞもう如何でも宜いから、投了したいとさへ思うてゐたくらゐだ。
 最近の野生に友人が減り續けてゐる其の最大の理由は、陣營内で野生を變なヤツだと、誰れしもが薄氣味惡くなるやうな噂を流す御仁があるからではなからうか。でないとするならば、あとは政府の陰謀だ、苦笑。



 さて。早速、昨日の續きを記したい。
 奇しくも、數日前、田中光顯伯のことを記した。
 伯の、御陵に關する意見を抄録したい。

●昭和四年『伯爵 田中青山』(田中伯傳記刊行會發行)に曰く、
『(田中青山)伯、曾て歴代の御陵墓巡拜の志あり、公務多忙のため其の志を果さゞりしが、明治三十六年夏寸暇を得、即ち八月十八日東京を發し一ケ月餘の日子を費やして京都、大阪、奈良、丹波、和歌山等の各地に出張し、五百有餘の御陵墓を歴拜した。歸來其の所感を述べて曰く。

「余は多年御陵墓巡拜の素志ありしも公務多忙なるを以て、暑中の休暇を利用せんとせしが、毎年殆んど無休暇の爲め、其の志を果さゞりし。然るに三十六年夏期圖らずも大命に接し、八月十九日帝都を發し、京阪地方に於ける五百餘個所の御陵墓を歴拜せり。
~中略~
 抑も山陵の事たる、政權、武門に歸せし以來、頽■(土+已=き、たいき)に委するの概ありしと雖、徳川氏に至り、綱吉將軍の時、細井知愼の議に基き、大に修造を加へ、民間にありては、松下見林の前王陵廟記の如き、蒲生君平の山陵志の如き、上下の注意を怠らざる所なりき。當時余が歴拜せる所其の詳細に至りては、僅少時間の悉す所にあらず。
~中略~
 謹んで惟るに、我皇室歴代、山陵の事たる宗教上の根據以外、要するに、皇子孫をして列聖の宏謨を欽仰し、且髣髴として當時の形勢を追想せしむるにあり。故に其修理の方針に關しては、必ずや一定の主義に法り、濫りに古制を變更して徒に外觀を裝はんとするが如きは最も採らざる所なり。且つ夫れ天災地異は測るべからず、不祥の言なりと雖、假令如何に壯麗なる陵墓と雖、何ぞ一朝壞頽の變なきを保すべけんや。此を以て徒に多大の費用を投て其外觀を美にせんよりは、如かず總て其當時の制に從ひ堅牢摯實を旨とし、一は以て萬民懷徳の情を導き、一は以て列聖儉素の風を示さんには。特に況や歴史は生ける事實なり。一朝陵墓の變あるも、二千五百餘年來國民の胸に生ける列聖の威烈は萬世赫耀として到底泯滅する能はざるなり。余は平常此意見を持し、當時の巡拜に就ても終始茲に留意し、歸京後、此點に附て特に詳細に奏上せり。試みに見よ彼の楠公碑の如き、壯時余が京攝往來の際に在つては湊河畔萋草離々たるの間に建て、轉た當年の情勢を追懷せしも、今や四圍俗臭紛々たるの裡に在りて亦た殆んど懷古の情を惹く能はざるにあらずや。偉人傑士の碑の如き、至大の影響を風教の上に及すものに至ては、其の修理に關して特に意を注がざるべからざるなり。我郷國の偉人、武市瑞山先生の墳墓は長岡郡吹井村(現在三里村)に在り。往年其の修理の議起るに及で、或は其の規模を改擴し壯麗なるものとなさんとするの説ありしも、余は固く之を贊せず。唯だ相當の修理を施し、別に當時の同志二十餘名と倶に瑞山會を組織し、以て其の事蹟編纂に着手し、今や既に成るを告ぐるに至れり。余が家の墳墓の如きも亦世俗の顰に倣へば、今日の境遇に從ひ應分の修理を加へ得ざるにあらざるも、余は徹頭徹尾如上の主義に據り唯だ古來の情況を變ぜざるの範圍に於て堅牢の修理を施せるのみなりき

 げに山陵修理の議は勤王思想の勃興と共に志士、學者の間に唱道せられたる所にして、彼の蒲生君平の山陵志をはじめ、川路聖謨、淺野梅堂、平塚飄齋、水戸烈公、戸田忠至、谷森善臣等が是に就て熱心なる努力をなしたことは人の知る所であるが、伯が繁劇なる公務を割いて此行に上つた其の意知るべきである』
 と。
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by sousiu | 2011-12-05 17:26 | 先哲寶文

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