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山陵志と今書  

 承前。

 『前王廟陵記』『諸陵周垣成就記』『山陵志』などを繙くに、御歴代の山陵の變遷に就て識ることが出來る。
 それ、上古は山陵の制度が未だ備らず、神武天皇から 孝元天皇まではたゞ丘に塚を築かされたのみであること。開化天皇の御時以降、漸く定つた一つの制度が出來ましたこと。それ、先づ 垂仁天皇から 敏達天皇までの廿三代は、山に陵を御營みになられまして、その大小高低は樣々であり、亦たその向きも一定してをらず。けれ共、その形は前方後圓墳である。
 次に 用明天皇から 文武天皇までの十代は圓墳であられますこと。奈良時代になると再び古い制度に復し山に陵がつくられ、前方後圓の形も行はれるやうになつたこと。

 こと『山陵志』では、茲に佛教が渡來しその影響頗る濃厚となるや、上古の風がすたれ、持統天皇の御時より初めて御火葬が行はれ、加之、その御火葬の場所が決して陵と定められたものではなく、御毛髮などを納められた石塔などを御陵と定めるといふことを、蒲生先生力めて序文に著す。
 忝くも、これは雲の上人による、葬を薄くして、國家の財や人民の勞を出來得るだけ負擔せない爲めの思し召しであらせられたことゝ恐察するものである。その反面、一方には、寺院は陸續造營され、國の費は大に消せられ、民力を盡して伽藍は壯麗を極めるといふわけで、已矣哉、これ、佛教及び佛教徒の盛んなりしことをあからさまに物語つてゐるのである。而して、蒲生先生は佛教の勢力強大が、おそれおほくも御陵に於ける古來の制度を破する近因となつたことを確信する。一事が萬事。豈にそれ御陵のみと云ふ可き。蒲生先生は政治に於ける、制度に於ける、民心に於ける、果たして 皇國に於ける輸入宗教の弊害を看破されたのである。※御火葬佛式の御儀、御取止めに奔走した奧八兵衞先生、通稱、魚屋八兵衞の衷情に蒲生先生が感激した逸話は、十二月三日付、「●蒲生先生、能く能く同志に語るに曰く」の項に記す。


 實は蒲生君平先生、啻に山陵の存在を江湖に報せむが爲めのみ『山陵志』を著述したのではない。
 蒲生先生の本懷は、『九志』を世に供することであつた。
 その第一が『神祇志』、第二が『山陵志』、第三が『姓族志』、第四が『職官志』、第五が『服章志』、第六が『禮儀志』、第七が『民志』、第八が『刑志』、第九が『兵志』である。
 蓋し 皇國の禮は祭よりも大なるはなく、古來、御歴代天皇の誠敬を御盡しになつて來たことによるので先づは『神祇志』、神祇の祭祀を崇び、御歴代の山陵を仰がぬ道理はなき爲め『山陵志』。皇國は古來氏族制度の國であり、神を祭り祖先を祀るにも必ず氏或いは家毎におこなふことから、神祇や山陵の歴史を明らかにした以上、次にはこの氏族制度の歴史を明らかにしなければならぬ、よつて『姓族志』。氏族制度は古來自然に存するところの社會の秩序であるが、猶ほこの秩序を正しくせんが爲めには一定の官職がなければならず、亦たそれを正常に機能させる爲めにもその歴史を明らかにせなばならぬ、よつて『職官志』。古への考へによれば一定の位や官職には、必ずそれに應じた衣服や、馬、俥、果ては乘輿に至るまで別といふものがなければならないとした。從つて、職官志の次は『服章志』。次に社會生活に要せられる可き樣々な行爲の規範を明らかにせねばならないので、『禮儀志』。これまでのことは服章でも禮儀でも大體に於て國家の上位にある者や政を執り行ふ可き位にある者に對して一讀す可き論であつたが、今度は治められる者に對して、その職業、生活の樣式を調べて正さねばならぬ、よつて次に考へねばならぬのこと『民志』。刑は廣く云へば法律であるが、古への考へ方によれば刑は寧ろ禮と竝ぶものであつたといふ。即はち禮をやぶる者を禁ずるものが刑であつて、當時の民は無智蒙昧多く在るがゆゑ禮儀のみで治めることは覺束ない、よつて次は『刑志』。最後は『兵死』、つまり軍事志。民は法律によつてよく治め得ても、國外より襲來する夷狄はこの兵によつて防衞せねばならない。經國の爲めには必ず治兵がなければならぬ。それには民は國防の重要に就て猶ほ識る可きであつて、古來の外征軍事の歴史から學ばねばならぬ、從つて『兵志』。以上、『九志』。
 惜しまれる哉、蒲生先生は『山陵志』『職官志』を上梓し、殘りの七志は未完成となつたまゝである。
 ・・・ところで、餘談であるが、吾人はこの『九志』に就て氣付かねばならぬことがある。
 蒲生先生に限つたことではないのであるが、この頃の、即はち維新囘天の黎明期にある思想家に概ね共通してみられる特徴として、内を整へることを優先順位としてゐることである。所謂る、修理固成(つくりかためなせ)といふことだ。決して、『兵志』を第一義としてをらぬところに、戰後の我れらは深く考究すべきことがらの多くあること、認めねばなるまい。


●柴田實氏、『蒲生君平の山陵志』(昭和十七年九月十五日「日本放送出版協會」發行)に曰く、
『かやうに見て參りますと九志といふものは首の神祇志から尾の兵志までの間に首尾一貫した一つの思想體系のあることがはつきりするでありませう。それは申すまでもなく儒教の思想を根柢とするところのひろい意味の政治理論でありまして、神祇、山陵、姓族等種々の事柄に就いて過去の歴史を調べますことも、窮極はこの政治の理想を明かにせんがためでありました。儒教ではこの政治の理想を聖人の道とも王道とも申し、周公や孔子にその範を求めようとして居りますが、蒲生君平はむしろそれを我が國の歴史に就いて明かにしようとしたのであります。彼は或友人に與へた手紙の中で「夫所謂王者之道豈復他求也、豈復他求也」といひ、自分は二十年來本朝の意を留め國初より、二千年の事蹟に就いて一々之を禮經に照して考へ、その名分を正したいがために九志を著すのであると述べて居ります。彼はまた九志の序文において更に積極的に我が國の秀れた所以を説き、その國土は南北の中間に位して寒暖の和を得、水土は産物に宜しくして五穀豐穰であり、文教よく行渡り、武威普く、然も太初以來名分正しく、民皆忠敬を致し、古く聖制あつて備らざるものがない。事は時と共に移り、物は世と共に變るが、然もなほ古に通じようと思ふならば書物も數ふべきほどあると申して居ります。
 ~中略~ 「山陵志」をもこめて、九志の根柢に存するところの根本思想は要するに歴史的なるものの中によるべき道を見出さうとする歴史主義であり、過去に理想をおくところの復古主義といはれませう』と。※夫所謂王者之道豈復他求也=それ所謂る王者の道を豈に復た他に求めんや


 さて、蒲生君平先生の初めての著述は『今書』である。蒲生先生、廿五六歳の著述と傳へられてゐる。『今書』とは、要するに、當時の政治上、社會上に露はれ始めた種々の問題を明らかにし、その修正案、解決策を古への歴史から導き出さうと試みたものである。蒲生先生の復古主義はこの『今書』に既に見えてゐるのだ。


●柴田實氏の曰く、仝、
『現今の時弊に對して上古の則るべきところは總じて何處にあるか、逆にいへば、上古の治世が何が故に現今の如く遷移したか、といへば、上古はすべて名が正しかつたが、時代と共にその名が亂れて來たのであつて、嘗ては社會の利益であつたところのものが、弊害となるのも時の勢の然らしむるところであるとして、古來、名と勢との移りかはるところを評論して居ります。昔から義を好むものは名に順ひ、利を好むものは勢に就く。しかも義を好むものは寡く、利を好むものは多いが故に名は勢に勝てない。しかしながら利をもつて義に易へるのは君子の道ではない。忠憤慷慨の士といふものは必ず寡をもつてよく衆に敵するものであるとて名の勢よりも重んずべきを力説してゐるのであります。ここに復古主義は同時に正名主義であることが明かとなるでありませう。彼が賦役や姓族に就いて論じてゐるところを見ますと、九志としては遂に出來上らなかつた民志なり、姓族志なりの内容も、若しそれが書かれてゐればどんなものであつたかがおよそ推測がつくのであります』と。



 『今書』に就ても觸れたいのであるが、少々くどくなるので、また今度だ。
 時對協の忘年會に於て、國信、坂田、木川三兄に圍まれ、ふと「寛政の三奇人」を書かうと思ひ附いたものゝ、餘りにも長くなつてしまつた・・・・。最早、日乘ではないな、これ。でも、この内容をツイツターつていふの?あれで連載するよりはまだマシだらう。
 今日は、夕方から阿形充規先生の事務所で御教示を賜はる。先程、歸宅。← 一應、日乘なので。苦笑。

 今度は殘る奇人の御二人、高山彦九郎、林子平先生に就て記してみたい。

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by sousiu | 2011-12-07 23:54 | 良書紹介

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