有志の誰れか文運の興隆を願はざる  

 昨日、神奈川縣維新協議會、海法文彦兄との雜談の折り、兄が『少年日本史』を購入したことを聞いた。
 云ふまでもなく、『少年日本史』は、平泉澄先生の著述による全國民必讀の書。哀しむべき哉、戰後から現在に及び保守派言論界は、戰前に比して 皇國史觀を考究、堂々たる氣概もて江湖に發表する人も激減したやうであるが、古本と雖も一代の碩學、平泉先生の書籍が流通してゐることは吾人の感謝措く能はざることである。而、今猶ほこれを求める人士のあるといふその一事を以てして、亂麻の如き世にあつてせめてもの慰めならむといふよりも、轉じて 皇國の將來に希望が持たれるのである。
●九段塾「平泉澄博士遺文」↓↓↓
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●仝「さあ、『少年日本史』を讀みませう!」↓↓↓
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 又た本日は、廣島縣の病人・・・、ぢやない(書き間違ひ、失敬)、賢人國信隆士兄より電話を賜はる。
 聞くに、兄は古書肆を巡り、錦陌講堂 淺見絅齋先生の『靖獻遺言』を求めたが、何處にも置いてゐない。仕方なく某書肆の主に頼み、やうやく入荷の聯絡を受け入手したものゝ、そは板本にて解讀する容易ならざる代物とのこと。されど斷念することなく、今度は法本義弘先生の『靖獻遺言精義』を注文したとの由。國信兄、落掌の日を鶴首、待望してゐるのだ、と。

 はからずも兩兄の入手せる書籍は、共に山崎闇齋先生を祖とした崎門學に縁り深かりし書。
 崎門の學は明治維新と到底切つても切り離せぬ干繋であり、兩兄のみならず野生も又た淺からぬ關心を抱いてゐるものだ。
 
 にはかに原點囘歸といふ言葉を耳にすることが増えて來た。陣營の友人からだけではない。凡ゆる分野に生きる者に、原點囘歸が叫ばれんとしつゝある。固より野生も、大晦日に記した如く原點囘歸を志す一人だ。だが、それ野生は時代の變動しつゝあるを以て理由に擧げるのではない。平穩無事な時、乃至は順調の期にはついぞ忘れがちであるが、常に「初心不可忘」「温故知新」は肝膽に銘じておく可き言と心得るが爲めである。況や壁にあたる乃至前途の多難が豫想されるに於てをや。尤も今日、原點囘歸の語が身近に聞かれるのも決して因なきものとせないが。
 そして原點囘歸は、運動を動機付け、理論の根幹を構成する思想そのものにまで及ばんとしてゐる。冒頭に戰後保守の言論人に皇國史觀が減つたことを悲嘆したが、正しく、日本の保守思想それ自體、原點囘歸の要される可きところであらう。

 こゝへきて、崎門學に興味を抱く有志が出でつゝあることはまことに頼母敷きことではないか。
 さう云へば時局對策協議會の小田昇兄が主催する「望楠社」も、淺見絅齋先生の御高弟である若林強齋先生の學舍「望楠軒」を仰慕するゆゑもて名付けられたといふ。

●仝「崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。」↓↓↓
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蘇峰學人翁、『近世日本國民史 ー徳川幕府上期 下卷 思想篇ー』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)第十章 「闇齋及び其の一派」項に曰く、
『闇齋の朱子學は、世の所謂る朱子學ではなく、山崎流の朱子學であつた。彼は朱子學を日本化し、併せて山崎化した。そは彼が何等朱子學に就て、特殊の新見、發明を加へたと云ふでなく、只だ彼の人格もて、然らしめた。言ひ換ふれば、彼は朱子學をば、學問界より人間界に引き下した。從來學問は學問、實行は實行と、自から區別してゐたものを、闇齋に至りて、學問即ち實行、實行即ち學問とした。此に至りて學問は、儒者の性理空談に止らずして、人間萬事の規法となつた。而して闇齋は、然かせしむ可く務めた。 ~中略~

 併し若し山崎闇齋の特色、何れにありと云はゞ、其一は、彼が國體觀念の極めて濃厚であつたことに歸せねばならぬ。彼は勤王家として、別に幕政の現状を、顛覆せんとするが如き徒ではなかつた。然も國體觀念に至りては、熊澤蕃山以上にして、山鹿素行と相駢ぶの位置を占めてゐる。 ~中略~

 彼は決して支那を精神的母國として、崇拜しなかつた。彼は儒者であるが、日本の儒者であるとを自覺した。彼の國體觀念は、極めて徹底してゐた。而して彼の勤王思想は、決して現在の幕政に向つて、挑戰する如き、實務的のものではなかつたが、一般儒者流の湯武放伐論には、甚だ不服であつた點から演繹すれば、其の結論は期せずして知る可しだ。 ~中略~

 闇齋彼自身は、只だ君臣の義を明らかにせんが爲めに、此論(下記、①)を作つた。然も此の論旨を推し詰むれば、日本全土皆な 天皇の土にして、日本擧國の人、上は將軍より皆な 天皇の臣たらざるはなき也。彼は遂ひに其處までは、突進しなかつたが、彼の流を酌むものは、遂ひに之に至らざれば息まなかつた』と。
(①)は、『先哲叢談』に掲げられる逸話のこと。掲げんに、『嘗て群弟子に問うて曰はく、方今、彼の邦孔子を以て大將となし、孟子を副將となし、數萬騎を率ゐ、來りて我が邦を攻めば、則ち吾が黨孔孟の道を學ぶもの、之を如何とかなす、と。弟子みな答ふる能はず。曰はく、小子爲す所を知らず、願くば其説を聞かん。曰はく、不幸にして若し此厄に逢はば、則ち吾が黨、身に堅を被り、手に鋭を執り、之と一戰して孔孟を擒し、以て國恩に報ぜん。此即ち孔孟の道なり、と』



 王陽明による「知行合一」の言を誘致拜借するまでもなく、蘇峰翁の言にあるがごとく、必然、崎門學派は學問即ち行動、行動即ち學問となつて、國をも動かさむの勢ひを呈した。水戸學も文武不岐、文武一致を理念とした實學である。
●蘇峰學人翁、同、卷頭言に曰く、
『然も此間(徳川專政時代に於ける學問の興隆と各般思想の擡頭期)に於て、個人として最も記憶す可きは、江戸に於ける徳川光圀と、京都に於ける山崎闇齋だ。光圀は水戸學の開山だ。闇齋は山崎學の始祖だ。此の兩者は、互ひに交渉あるが如く、互ひに交渉なきが如く、而して有心無心の間、遂に維新大改革の鴻業を翼襄するに於て、期せずして、協同一致の力を竭した。
 水戸學の根據は、史學であつた。されど義理の詮議、王霸の區別は、朱子の通鑑網目の説に原くものが多かつた。山崎學の根據は、朱子學であつた。居敬窮理、誠意正心は、其の要目だ。されど其の治國平天下に至りては、必ずや之を史學に原かざるを得なかつた。闇齋彼自身も、日本書紀の編者舍人親王を尊崇した。而して彼も亦た修史の志が在つた。高足の門人淺見絅齋の靖獻遺言に至りては、實に史學を以て經とし、義理を以て緯としたる著述であつた一代の雄たる山鹿、熊澤諸子の説、固より看過す可きではない。されど水戸學と、山崎學とは、一川の中を、一は左岸に副うて流れ、一は右岸に副うて流れ、而して其の水勢の浩蕩、汪洋たるに至りては、一川に充溢して、更に兩岸の外に汎濫するに至つたものと云はねばなるまい。
 吾人は必ずしも、思想方面のみを重視して、他を無視するものではない。されど人類が本能の衝動に驅遣せられて、盲進する場合は兔も角も。苟くも其の自覺的大運動の場合には、必ず一種の確信一種の理想一種の信仰が、之れが主とならねばならぬ事を、歴史的事實の上からも證明する。而して人類の思想を支配する者は、人類の肉體を支配する者よりも、更により有力の王者であるを疑ふ能はぬ』と。※括弧内は野生による。



 三百年の時を經て、決して安價ならざる古書を購入し、戰前囘歸に止る能はざるして更らに己れの信ずる道統を深究せむとする、其の意氣や宜し。
 要するに、海法兄も國信兄も、病人、元へ、變人なのだ。・・・ま、病人と云ふも變人と云ふも、どちらも似たやうなもんか・・・。笑止。
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by sousiu | 2012-01-06 23:31 | 日々所感

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