意識革命の先達者、山鹿素行先生  

 斷つておかねばなるまいが、野生は、近年の保守層が總て似て非なる可しであるとか、或いは不見識であるとか云うて徒らに中傷するものではない。
 然るにても戰後の保守派陣營に、純然實直なる尊皇家が少くなつてきた事實は事實として認識す可きである。サンケイの如きを日本マスコミの良心と看做していさゝかも憚らぬ保守派の多くあることが、それを語つてゐるやうなものだ。
 尤も正統保守、良識派の全員が壇上より撤退したとは思はれない。或いは妖しげな自稱保守派が跳梁跋扈し大手を振つてゐるので斯く感じるのか、野生は精しく識るものではない。いづれにせよ、その一部の眞正にして生粹の有志が、今猶ほ螳螂の斧を揮うてゐることもまた見逃す可からざる事實である。

 保守を自認する人達が街頭に出てきて數年がたつ。彼れらは幟やプラカードを持ち、デモ行進に盛だ。自らを「行動する保守」と云ふ。憂慮に堪へぬ者、おのれの身を書齋の前に措くも安する能はず、街頭に出でて時には憂憤の一語も發せんとする氣にならうと云ふものだ。不安定な御時勢であれば、當然の成り行きだ。
 一方では、これまで街頭を主戰場としてゐた行動右翼が、克苦精勵、勉強に專心する者も増えてきた。何だかあべこべで面白い。
 行動右翼には熱血の士が多い。犧牲的精神も旺盛だ。驚く可き哉、贊ずる可き哉。事業に專念すれば屹度成功したであらうと思はれる人が財を惜しまず運動に時間も私財も惜しまず投じ、或いは平穩無事に生活してゐたにも關はらず一念發起憤然蹶起して囹圄の身となつた御仁も少くない。その爆發的な瞬發力や不屈の精神力、犬馬の勞も厭はぬ繼續力は、時に巨大な岩をも動かす。かうしたエネルギーの持ち主が、更らに思想、見識、理論などを研磨し保守派の論壇に加はつた時に、それ期待するところ大と云はねばなるまい。而もさうした熱血人士が研學は、いつまでも机上の理屈や書齋的空論に止る能はず。元來が活動主義の資質を有してゐるわけであるから、街頭以外の活動の場も新らたに開拓する能ふこと必至である。

 野生の道友や後輩も、志學の氣概を逞しくする人が増えてきた。圖南の翼を持した彼れらから野生は教はること決して少なしとせない。
 以謂くは戰後世代各々が、不可抗力として植ゑ附けられた戰後史觀、日教組史觀から自らが脱却を實現し、而、江湖にその呪縛からの解放を呼び掛けるものでなければならない。それ一ト口に“勉強”とは云うてみても、自己に根付いた日教組史觀を木っ端微塵にするまでには、中々大變な作業だ。一々名前を列擧することは控へるが、日乘を拜讀する限りに於て、試行錯誤や苦學の跡が伺へる人があつて、まことに敬意を表するものである。
 已んぬるかな、今に云うても仕方なきことであるが、戰後の教育界がもつと確りしてをれば、この分の勞力は、少からず省略出來た筈なのだ。

 それを考へたとき、先人は進んでゐることが識れる。およそ四百年前、已に山鹿素行先生は、徹底とした日本第一主義の信念を抱き、日本を以て「中華」「中國」とさへ明言してをられる。
 比して今、日本の保守を自稱し乍ら、支那を中國と尊稱し躊躇はず、あまつさへ耶蘇暦を愛用する人ら少からずあるをみるに、野生が冒頭の言に至るも決して無理からぬ觀測であると諒せられよ。


山鹿甚五右衞門先生、延寶三年『配所殘草』に曰く、
我等事以前より、異朝之書物を好み、日夜勤め候ふて、近年新渡之書物は存ぜず、十ケ年以前迄、異朝より渡り候ふ書物、大方殘らず一覽せしめ候ふ。之に依つて覺えず、異朝の事を諸事宜く存じ、本朝(即はち、皇國のこと也)は小國故、異朝には何事も及ばず、聖人も異朝にこそ出來候ふと存じ候ふ。
此の段は我等ばかりに限らず、古今之學者、皆、左樣に心得候ふて、異朝を慕ひ學び候ふ。近頃初めて此に存じ入り、其れ誤りなりと知り候ふ。耳を信じて目を信ぜず、近きを棄てゝ遠きを取り候ふの事、是非に及ばず。誠に學者の通病に候ふ。詳らかに中朝事實に記し候へば、大概を爰に記し置き候ふ
』と。(原文は漢文。括弧は野生による)

 素行先生の茲に云はれる「異朝の書物」を、所謂る「權利」であるとか「民主」であるとか畢竟するに西歐の思想と置き換へて現代を觀察すれば如何。誰れか、素行先生の、ひとり舊き御苦情と一笑する者あらむ。


 又た曰く、仝
『本朝は、天照大神之御苗裔として、神代より今日まで、其の正統一代も違ふ候ふこと之無く、藤原氏補佐之臣まで、世々斷えずして、攝■(「竹冠」+録=ろく)之臣相續き候ふの事。亂心賊子之不義不道なること之無く候ふ故なり。是れ仁義之正徳甚だ厚きなる故にあらずや。次に神代より人皇十七代迄は、悉く聖徳の人君相續あり。賢聖の臣補佐奉りて、天道の道を立て、朝廷の政事、國郡の制を定め、四民の作法、日用衣食、家宅、冠婚葬祭の禮に至るまで、各々其の中庸を得て、民やすく國平らかに、萬代の規模立ちて、上下の道明らかなるは、是れ聰明聖知の天徳に達せるにあらずや。況んや武勇の道を以て曰はば、三韓を平げて、本朝へ貢物をあげ、高麗を攻めて其の王城を落し入れ、日本の府を異朝に設けて、武威を四海にかゞやかす事、上代より近代迄然り
本朝の武勇は、異國までも恐れ候え共、終ひに外國より本朝を攻め取り候ふ事はさて置き、一ケ所も彼の地へ奪はるゝ事なし。されば武具、馬具、劍戟の制、兵法、軍法、戰略の品々、彼の國の及ぶ處にあらず。是れ武勇の四海にまされるにあらずや。然れば、智仁勇の三は、聖人の三徳也。此の三徳の一つもかけては聖人の道にあらず。今此の三徳を以て本朝と異朝とを、一々其の印を立て校量せしむるに、本朝遙るかに勝れり。誠にまさしく中國といふ可き所、分明也。是れ更に私に云ふにあらず。天下の公論也。上古に聖徳太子ひとり異朝を貴びず、本朝の本朝たる事を知れり。然れ共、舊記は入鹿が亂に燒失せるにや、惜しい哉、其の全書世に顯はれず』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ。括弧は野生による)


●遡ること、寛文の九年、素行先生、『中朝事實』序文に草して曰く、
『~略~ 愚生、
中華(皇國のことなるべし)文明の土に生まれて、未だ其の美を知らず、專ら外朝の經典を嗜み、■(口+「謬の右側」=かう)々其の人物を慕ふ。何ぞ其れ放心なる乎、何ぞ其れ喪心なる乎。抑も妙奇なる乎。將た尚異なる乎。夫れ
中國(しつこいやうだが、皇國のこと)の水土、萬邦に卓爾し、而して人物は八紘に精秀す。故に神明の洋々、聖地の綿々、煥乎たる文物、赫乎たる武徳、以て天壤と比す可き也』と。(原文は漢文。改行は原文マヽ)



 嘗て林道春(羅山)といふ痴れ者があつた。道春は徳川の御用儒者だ。而、骨髓まで汚染された慕夏主義者だ。道春は、我が相模國の痴漢、廉恥も教養も將た又た神罰をも識らぬ中巖圓月なる僧が主張したる「天□中國人説」に同調した腐儒者の極はみだ。
 しかしながら斯くの如き道春が、幕府御用學者の權威を擅恣したその一事實を以て、如何に當時の學問が歪みに淫してゐたか察せられよう。當時幕府による嚴しい統制下にあつた時代を鑑みれば、今日の日教組の影響と同日の論ではあるまい。
 素行先生は弱冠九歳にして、この道春の門下に遊んだ。されど聰明なる素行先生は、克苦求學を累ね、遂に道春と當時瀰漫してゐた支那崇拝思想、事大主義に一大斧鉞を加へた。
 素行先生の學統には後の吉田松陰先生あり。松陰先生の高弟に維新の傑物が續出したことは何びとも識るところである。



●蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 徳川幕府上期 下卷 思想篇』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)に曰く、
『彼れ道春は、我が 皇統を以て、或は呉の太伯に、或は夏の少康に繋いでゐる。而して彼が此の思想は、彼の子春齋の、本朝通鑑を編するに至る迄、蹈襲せられ、日本の始祖を、呉の太伯の胤と特筆するに至つた。
 惟ふに道春父子の此の思想は、必ずしも史實に根據したる、確乎たる見解にあらず。唯だ其の胸中に充滿したる慕夏思想よりして、斯く判定したるものであらう。是れ尚ほ今日の日本に於て、故らに白皙人種を崇拜するの餘り、日本人を以て、異色人種にあらず、白皙人種なりと云ふの類であらう。而して素行の中朝事實は、此の慕夏思想に向つて、一大正面攻撃を與へたものである。素行は單に日本と支那とは、水土の殊なるが爲めに、支那流儀を、その儘日本に應用す可からずと云ふに止まらず。直ちに日本を以て、中華とするものである

 又た曰く、
後來、會澤安(正志齋)の新論の如きも、其の感化を、一般社會に及ぼしたる點は、中朝事實に比して、數倍乃至數十倍なる可きも、其の日本第一主義、日本至上主義の鼓吹者としては、固より此の中朝事實に、數歩乃至數十歩を讓らねばなるまい。彼の前にも、彼の後にも、諸般の思想を把持した者はあつたに相違ない。然も未だ彼が如く張膽明目して、之を闡明、論究したものは無かつた。此點に於ては、彼れ山鹿素行は、確かに同時代の第一人者であつた』と。

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by sousiu | 2012-01-11 01:22 | 先人顯彰

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