『戰後史觀の脱却』で諒とすべきか。  

 昨日は都内で五人會。
 御互ひに近況報國・・・ぢやない、報告で時を過した。
 一人の女性は最近、專ら、古事記を愛讀してゐるといふ。素晴しいことだ。神社崇拜の念も篤い。それも理屈からではなく、感性といふのかインスピレーシヨンといふのか、さういつたものから崇拜してゐるやうだ。
 崇拜があつて、信仰があつて、確信があるが、それつてやはり、本來理屈から生ずるものではないのだな。理屈の力つて、かうした方面では案外邪魔だ。科學的結論と、信仰的確信とは全く異る。もとゝゝ、日本人て、感性や靈性に優れてゐる民族だと思ふのだけれども。左翼と呼べる人らは可哀さうに、この邊の能力が發達せぬまゝ大人になつてしまつてゐる。だから、反日なのだ。


 さて、歸つてからは、そのまゝ布團へ。中斷したまゝの「原稿」を考へないやうにし、パソコンの前の「腱鞘炎知らず」を見ないやうにし、布團に直行すれば、心は亂れることなく、安らかだ。この氣持ちの切り替への早さは、一種野生の能力だけれども、汗、それを云ふと木川選手から、返せ、と怒られさうなので、さうは云はない。

 寢る前に小册子『皇國勤勞體制の理念』を拜讀。
 發行は「大日本翼贊壯年團」。すごい名前だ。考へてみれば、青年と名の付く團體は多いが、壯年と名の付く團體て、現在はあるのかな。
 ともかく、『皇國勤勞體制の理念』(昭和十八年二月廿五日「大日本翼贊壯年團」發行)大政翼贊會事務總長、小畑忠良氏の曰く、
『體制といふ言葉は四五年この方盛んに使用せられるやうになつた一種の新語である。體は體格、制は制度で、組織機構といふのと大體同意義の言葉と思ふ。自由主義、個人主義、營利主義の社會組織、經濟機構を舊體制と呼ぶならば、舊體制は明治以後英米から輸入した體制である。この外來の體制が爛熟し老化し、圓滑な運轉をしなくなつた時、これに代るべき體制は如何なる姿をとるべきか。舊體制は英米であるから今度は獨逸流のナチズムか、伊太利張りのフアツシヨか、但しはロシアか。新體制といふと近頃の人々は動もすれば歐米の眞似でないと承知しない傾向があるのであるが、これが間違の基である。借り物は結局、行き詰る。天壤と共に極りなき皇運を扶翼し參らせる日本帝國の國民組織は、永久に融通無碍でなければならぬ。一時の間に合はせは絶對にいけない。日本國の國體に相應し日本人の本性に適合する體制が彌榮の國民組織である。外國の眞似事は差し當り都合が好いやうでも早晩は動かなくなる。新體制は日本國の眞の體制であり、日本人の惟神の體制でなければならぬ。新といふと新奇な舶來物といふ感じを與へるが、大化の改新といひ、明治の維新といひ、國民組織の變革の場合には不思議に復古を意味してゐる。昭和の新體制もこの意味において復古體制であつて、神武の昔、神代の昔の國民組織を當代に適するやうに再現せんとするものである。
 新體制を理解するには、國體と相そぐはない舊體制が如何にして我國にはびこるやうになつたか、そしてそれが如何にして行き詰つて來たかを探求するのが捷徑である』と。

 七十年前からこのやうに、今とさして變はらぬ論調が既に出でてゐたことを鑑みれば、果して『戰後史觀及び體制の脱却』の實現だけで日本の前途は宜いのであらうか。
 強國日本が再現すればそれで宜しいと考へる人達はともかく、正しく復古を志す人は、單純な『戰前囘歸』では滿足し得る能はぬであらう。それを踏まへて、先日、記した鈴屋大人や、そのほかの碩學の教へを學ぶならば、一層、感性や靈性が鍛へられるのではあるまいか。・・・我れながら、おあとが宜しいやうで。苦笑。

 だが、上の小畑氏、戰後、公職追放となり、一轉、平和運動家に變心した者である。この人の場合、おあとがいくない。
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by sousiu | 2012-02-04 11:34 | 日々所感

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