北方の警備經營を説く先人あり、その意を知る可し。 

 『寛政の三奇人』と呼ばれる一人に、林子平翁がある。
 元文三年戊午六月廿一日、江戸に生る。姉のなほ刀自が仙臺藩主の側室となつたことが縁となり、子平翁は仙臺藩の祿を受く。


○長田權次郎氏『偉人史叢 第一卷 林子平 全』(明治廿九年二月十日「裳華房」發行)に曰く、
『寛政の三士、皆、天資卓犖、天下の憂に先ちて、之が爲めに轗軻沈淪し、一も志を當時に得る者なし。抑も三士、憂國の念を同くするも、其氣象と冀望とは各殊なる者あり。仲繩(※高山彦九郎先生のこと也)は王室の式微を嘆じて、囘天の業を霸府隆盛の時に策し、秀實(※蒲生君平先生のこと也)は名分を正し、大義を明かにし、人心をして王室に嚮はしめんとせり。其志、共に偉なりと謂ふべし。子平に至りては、復た邦内權勢の歸宿する所を問はず、日本を把りて一丸とし、其勢力を強盛にして列國に對峙し、宇内に雄飛するの思想を發揮す。其氣宇唯二士に異なるのみならず、子平に先ちて起れる諸豪傑の嘗て思を經ざる所なり』と。


 子平翁をして、眼中に、宮中なく、たゞ海防重視あるのみと分析するの論ありと雖も、それ子平翁の名譽の爲めと云はず、公平にみても、不穩當なる觀察と云はねばならぬ。
 仲繩先生、秀實先生は、皇國闡明の志專らにして、強く、從つて前面に出でたるものなり。子平先生はその裏面にあり。時に先立ちて、ひたすら、神州清潔の汚されるを憤慨するに盡きる。その表裏が一體して顯現された、明治維新をみよ。
 云はずもがな、當今の、權利思想に淫された強國日本再現論とは天地の差異をば認むるべし。


○仝、『盖し仲繩秀實は、感を我古史を讀むに起す。故に志を前賢繼述の業に發し、子平は、眼を海外の書に開く。故に思を宇内竸走の事に致す。仲繩の人と爲りは壯烈。秀實は憤慨。皆世の瞶々に堪へざるが如くにして、子平は、奇矯の中、頗る天命に安ずるの、慨あり。
 三士時を同くして世に出で、其行、生時に狂視せられて、其言百年の後に驗あり。明治中興、政權王室に歸するは、是れ仲繩の志にあらずや。名分正に復して、王制粲然、百度一新す、是れ秀實の志なり。國内を統一して、外難に當り、武備を整へて、萬里の波濤を開拓す、是れ子平畢生の志にして、其業緒に就くと雖、未た大に伸ぶるに至らず、盖し二士の志は、繼述の事に屬して、子平の志は、創思の業に係り、二士の志は、既往の囘顧に發して、子平の志は、將來の計畫に起る』と。


●六無齋 林子平翁、『富國策』(天明五年乙巳)に曰く、『一年にして富を欲する者は、無用の費を闕ぎ、君臣の欲する所を省畧するに在り。五年にして富を欲する者は、市商の道を便利ならしめ、買道は、市廛に任するに在り。十年にして富を欲する者は、衣食住を定むるに在り。二十年にして富を欲する者は、農を進め、牛馬を生養し、樹を植ゑ、農民金銀を用ゐずして錢を用ゐ、五穀を以て諸品と交易すべし。五十年にして富を欲する者は、山海川澤田野の品物を宜しきに通路し、天地の産物を辨利するに在り。百年にして富を欲する者は、文武に在り。教化行れば、天下の富を保つ』と。


 安永七年。子平翁、長崎にて蘭人アーレン・ヘートとの談話にて悟るとことあり。
 蘭人の語りて曰く、『北よりして南を侵すは易く、南よりして北を略するは難し。北より南に入ること五七日なれば風土稍暖かに、産物亦多し。更に十日乃至廿日なれば、愈々暖かに愈々多し。故に人心隨つて旺し、利隨つて大なり。これ北の南を侵し易き所以なり。而して南よりするは、全く之に反す。和蘭の布哇を取り、韃靼の支那を取り、魯西亞の韃靼を取る、皆、この理に由るのみ』と。
 子平翁、北邊經營に目を轉じ、殊更らに武備の確立を主張する。
 曰く、『日本寛文の頃、莫斯哥未亞(モスゴービヤ)の女帝、[莫斯哥未亞は、即ち魯西亞なり、女帝といへるは彼得とカサリンとを混じて一とせるに似たり]大豪傑にして、五世界に帝たらむと志を振ひ起し、制を定め、令を下して曰はく、吾より後子々孫々、我が制を改めず、土地を廣くして、功を大にするを以て帝業となせよ、となり。夫より次第に韃靼の北邊を略して、終に    日本元文の頃まてに、東の限り加摸西葛杜加(※カムチヤツカと讀むべし)より東には、略すべき土地なし。故に又西に顧みて、彼千島を手に入るべき機(きざし)ありと覺ゆ。其故は、千島の極東に、ラツコ島一名クルセムと云ふ一大島あり。此島も彼が手に入りたりと覺えて近頃は莫斯哥未亞人多く住居する由なり。之を基本にして、此頃は蝦夷に近つきエドロフへ來りて交易するなり。然れども、其交易に來る本心計り難し、儻くばエドロフを呑むの志意には非らざるか』と。


 徳川氏による峻嚴なる鎖國政策、幕藩體制下にあつて、且つ、現在と比して至極情報の交通が圓滑ならざる時代にあつて、北方の領土に就て兔角論じられることが少なかつた。否、間宮休藏氏の如き一部の先見者を除き、殆ど認識すらされてゐなかつたかも知れない。後々、元治に至り、坂本龍馬、北添佶磨諸先達による「蝦夷地開拓」構想が生まれ、一方では、明治元年、舊幕軍榎本武揚や新撰組殘黨土方歳三らの「蝦夷共和國」構想を惹起せしめたのも、これひとへに北方警備、經營の未だ成らざるが爲めと認めざるを得ない。今日みられる、露西亞國による北方領土侵掠の事態を招來したことも、成らざるが爲めの一因として思ふべし。


●『海國兵談自序』(天明六年丙午)に曰く、
『海國とは何の謂ぞ。曰、地續の隣國無して四方皆、海に沿る國を謂也。然ルに海國には海國相當の武備有て唐山の軍書及ヒ    日本にて古今傳授する諸流の説ト品替れる也。此わけを知されは    日本の武術とは云かたし。先海國は外寇の來リ易キわけあり。亦來リ難キいわれもあり。其來リ易シといふは軍艦(イクサブネ)に乘じて順風を得レは    日本道二三百里の遠海も一二日に走リ來ル也。此如ク來リ易キわけあるゆへ此備を設けざれば叶ざる事也。來難シといふいわれは四方皆大海の險ある故妄リに來リ得さるなり。しかれとも其險を特(※原文マヽ。「恃」乎)て備に怠ル事なかれ』と。


●『海國兵談』卷之一「水戰」(天明七年丁未)に曰く、
海國の武備は海邊にあり。海邊の兵法は水戰にあり。水戰の要は大銃にあり。是海國自然の兵制也。然ル故に此篇ヲ以て開卷第一義に擧ル事、深意ある也。尋常の兵書ト同日の義にあらずと知べし

 昇平久キ時は人心弛ム。人心弛ム時は亂を忘ルヽ事。和漢古今の通病也。是を不[レ]忘を武備トいふ。盖武は文ト相並ンて徳の名也。備は徳にあらず、事(わざ)也。變に臨て事欠かさる樣に物を備置を云也』と。


 二百年以上も前に上梓された『海國兵談』を今拜讀するに當り、聊か古き感あるは否めぬも、そは産業、技術などの點に於て看れば然もあらん。けれ共、子平翁の國防に關する大志を讀み解かむとするに、國防を他國に委ね、それを最上策と信じて省みることなき刻下の日本人大多數の一體誰れが、これを古ぼけた無用の書と云ふこと出來やう歟。

 政府廣報による「北方領土の日」宣傳も、一向に空しくあるのみ。
 その原因を考察するに、やはり據つて立つところは權利思想にあり、おほくの國民が是非の分別こそ了解すれども、北方領土に權利を主張する丈の益なきを思ふが爲めである。曰く、『如何でも良いぢやん』と。曰く、『別に返つて來たからと云つて何か、そこまで得することがあるのかな』と。權利思想は、得大きを見込めれば主張し、左なくば主張の聲も萎む。尖閣諸島が、北方領土よりも關心の集まる所以は茲に存すと云うてもよいのではないか。
 已んぬるかな。政府は、領土の神聖を以て國民に「北方領土奪還」を啓蒙す可し。我れらの啓蒙の必要もこゝにこそ生じる。而して「領土の神聖」を説かむとすれば即ち、「皇土」の概念普及を念頭に置く可し矣。これ以て、日本國防の眞意も又た國民の了知するところとならむ。


●子平翁、田沼時代の士氣墮落を憤慨して曰く、
『吾、幸ひに太平の世に生れたり。存命の間さへ、干戈の事なくむば、幸甚しきなり。子孫の事は、又其時の事よと云ふ人、十に九なり。悟り拔きたる詞に似たれども、其實は、武備なきを耻ての遁辭なり。斯く云ふ人は、凡夫の上の大凡夫と謂ふ者なり』と。
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by sousiu | 2012-02-07 17:22 | 良書紹介

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