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ひとむきにかたよることのあげつらひ  

 月曜日は「神奈川有志の會」の懇親會。
 この日、野生の天敵である伊藤満先輩が缺席。説教右翼の先輩が不參加であつたことは、ちと殘念であつたが、有志の會はこの日も活氣充分であつた。
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 この會の宜いところは、皆が意見を持つてゐるといふことだ。
 最近はあまり無いが、これまで論爭となることも決して稀有ではなかつた。しかし、その論爭も決していやらしきものではなく、いふなれば發展的で、いづれも有志ならではの論爭といふべきものだ。
 野生は、左翼の如く、自分の派以外を敵視したり、更らには自己總括に名を借りた肅正の如く、なんでもかでも批判することに聊かも共鳴するものではない。
 だがしかし、逆に云ふ可きこと、云はねばならぬことまでをも云へず、或いは云はさずの關係も又た、決して健康ならぬ間柄だと思ふわけである。このあたりのバランスは上手に説明出來ないが、兔に角、アラ探しや敵探しであるとか、その正反對としての友達集めやゴツコのどちらも、兩極端に位置してはゐるが、共通する部分があるやうに思はれる。建設的ではないといふことだ。
 さういつた意味で「神奈川有志の會」は一人ひとりの個性が隱れることもなく、いふなれば浪人的な空氣が充滿してをり、野生は好きなのである。


 この日、木川選手から「玉勝間」の話しが出たので、野生もお付き合ひして、「玉勝間」から引用をば。

●鈴屋 本居宣長大人、『玉勝間 卷四 わすれ草』(寛政九年)「ひとむきにかたよることの論ひ」項に曰く、
『世の物しり人の、他(ひと)の説(ときごと)のあしきをとがめず、一(ひと)むきにかたよらず、これをかれをもすてぬさまに論(あげつらひ)をなすは、多くハおのが思ひとりたる趣をまげて、世の人の心に、あまねくかなへむとするものにて、まことにあらず、心ぎたなし。たとひ世人は、いかにそしるとも、わが思ふすぢをまげて、したがふべきことにはあらず。人のほめそしりにハかゝハるまじきわざぞ。大かた一むきにかたよりて、他説(あだしときごと)をバ、わろしととがむるをバ、心せばくよからぬこととし、ひとむきにハかたよらず、他説(あだしごと)をも、わろしとハいはぬを、心ひろくおいらかにて、よしとするハ、なべての人の心なめれど、かならずそれさしもよきことにもあらず。よるところ定まりて、そを深く信ずる心ならバ、かならずひとむきにこそよるべけれ。それにたがへるすぢをば、とるべきにあらず。よしとしてよる所に異(こと)なるハ、みなあしきなり。これよければ、かれハかならずあしきことわりぞかし。然るをこれもよし、又かれもあしからずといふは、よるところさだまらず、信ずべきところを、深く信ぜざるもの也。よるところさだまりて、そを信ずる心の深ければ、それにことなるすぢのあしきことをば、おのづからとがめざることあたはず、これ信ずるところを信ずるまめごゝろ也。人はいかにおもふらむ。われは一むきにかたよりて、あだし説をバわろしととがむるも。かならずわろしとは思はずなむ』と。(板本による原文マヽ)
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○譯文『研究社學生文庫 玉勝間』(昭和十五年十一月一日「研究社」發行)尾見修一氏による。
『世間の識者が、他人の學説の惡い點を(指摘し)非難せず、一方面にばかり傾かず、これもあれも捨てぬやうに(生ぬるい態度で)議論をするのは、大多數は自分が正しいと信じてゐる趣旨を枉げて、世間の人の心に、おしなべて迎合しようといふのであつて、誠實ではなく、心事が陋劣である。たとへば、世間の人が、どんなに惡くいはうとも、自分の信ずる道理を枉げて、他人に從ふことはいけないのである。他人の毀譽襃貶には關係のない問題なのである。大體に於て、一方向に偏して、他人の學説を、惡いととがめるを以て、心が狹隘であり、よくないことであるとなし、一方に傾かず、他人の學説をも、わるいといはないのを、心が廣量で、大人しく、よいとするのは、一般の人の心事であらうけれど(さういふ風であいまいで、どつちつかずの日和見的態度は)、必ずしも大してよいといふ事ではない。自分の據り所とする點が確乎としてをり、それを深く信ずる心があるならば、必ずその一方向に傾く筈であるそしてそれに反對する道理をば採用する筈はない。自分がよいとして信ずる所と違つてゐる所説は、皆惡いのである。一方が是ならば他は必ず否である理窟であるのだ。それだのに、これも可である、同時にあれも惡くはないといふのは、據り所とする點が確乎としてゐなくて、信ずべき所を、少しも信じないのである。根據が確乎としてゐて、それを信ずる心が深ければ、それに違つてゐる道理の惡い點を、自然ととがめなくてはならぬわけである。これ即ち我が信ずる所を信ずる忠實なる心である。人はどういふ考へだらう。それは知らぬが、自分は一方向に偏つて、他人の學説を惡いと非難するといふ態度を、かならずしも惡いとは思はないのだ』

 人は如何云ふ考へだらう。それは知らないけれ共、野生は宣長大人の、このお説に共鳴するものである。

by sousiu | 2012-02-15 02:11 | 先哲寶文

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