小論愚案 求學求道・・・の補足。 

●蘇峰 徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第十六卷 徳川幕府上期 下卷 -思想篇-』(大正十四年四月廿日「民友社」發行)に曰く、
『朱子學は、徳川時代に於て、偶然にも、二大派を生じた。一は官學、即ち徳川幕府の御用學者林家によりて、代表せらるゝものにして、他は所謂る南學と稱する、土佐を發祥の地とし、山崎闇齋により、京都に於て、唱道せられたる私學である。

~中略~ 而して朱子學が、幕府の現行制度に向つて、一大打撃を加ふるに至つたのは、林家の御用學問でなくして、山崎派の民間學問であつた。山崎闇齋其人は、必ずしも幕府の現行制度の批評者でもなく、改革者でもなく、又た反抗者でもなかつた。然も彼の流れを酌む末派に至りては、其の唱道者の思ひ及ばざる點に迄、其の學問の感化を推し及ぼした。
 此の意味に於ては、熊澤蕃山よりも、山鹿素行よりも、伊藤仁齋、物徂徠抔は云ふ迄もなく。山崎闇齋は實に幕政改革の氣運を釀造したる、唯一人たらざるも、第一人と云はねばならぬ。而して山崎闇齋が、此の如き大勢力となりたる所以は、山崎學その物の勢力よりも、寧ろ山崎學によりて刺戟せられ、長養せられたる、水戸學の力である。
 水戸學の淵源が、山崎學にありと云ふは、餘りに山崎學の勢力を、買ひ被りたるに庶幾い。然も水戸學は、其の發生を山崎學に假らざる迄も、其の發達の、山崎學に負ふ所、決して少々ではなかつた。而して山崎學も、水戸學によりて始めて其力を、天下に伸ぶるを得た。此の兩者の關係に就ては、更らに他の機會に於て、語るであらう。
 (※當日乘にて既記。→→  http://sousiu.exblog.jp/17043640/)

~中略~ 朱子學に林家と、山崎派とあるは、猶ほ英國の基督新教に、國教と、非國教とあるが如し。林家の朱子學は、流石に御用學問だけのことありて、如何にも温柔、敦厚のものであつた。其の學問の筋合は、只だ當局者に都合の良き樣に出で來つた。彼等は國家としては、支那を中華とし、政治としては、幕府を本位とした。

 固より、如何に官學にせよ、一般の氣運、及び風潮に沒交渉なるを得なかつた。如何に支那を崇拜しても、道春等亦た、日本が神國であると云ふ思想に、浸潤せらるゝを禁じ得なかつた。如何に眼中只だ將軍あるを知つてゐても、全く京都を無視することは能はなかつた。併し彼等は氣運から、世潮から、動かされ、引きずらるゝに止りて、未だ積極に之を動かし、之を引きずるが如きことは能はなかつた。
 然も山崎闇齋一派に至りては、正しくそれであつた。彼等の總てとは云はぬが、其の一派中からして、朱子學の精神を、直ちに現行制度に適用して、大いに其の批評的、時としては破壞的論評を、逞うするもの出で來つた。彼等は必ずしも倒幕だとか、天皇親政とか云ふが如き、革命的氣分に感染してゐなかつた。然も彼等の論鋒は、無意識的に、その方面に進み行くを禁じ得なかつた。
 繰り返して云ふ、山崎學の影響は、勤王思想、國體思想の發達に對して、實に甚大であつた
』と。


 これは新生兒の成長を促す眞白き母乳が、何かと結合し、乳兒の體内で深紅の血となり或いは骨肉となる、その結合したる何か、の一例として識る可しだ。
 固より、學問のみではない。山崎闇齋先生は、垂加神道の祖師でもある。御高弟の間では、崎門學と垂加神道の一致には多少の確執や葛藤もあつたやうだが、ともかく、思想と信仰が極めて密接となり、否、濃密となり、高められた結果が、白き乳を赤き血へ變へたのである。抑も、同じ朱子學なるも、何故に崎門學と林學の、隆盛と沒落といふ差異が生じたのであるか。これは時代の變遷も無視出來まいが、やはり、神國に對する確信の差ではないかと、野生は思ふのである。

 『闇齋は學者と云はんよりも、寧ろ教育者であつた。彼の學問には、當初から宗教的熱信と、訓練とを含蓄した。されば彼が人を教ふるや、記誦詞章の學にあらずして、直ちに實踐躬行であつた。而して其の學問の範圍を、極めて狹くして、其の深く徹底せんことを期した』仝。


 平成の御代に何を今更ら、朱子學などを、と一笑する勿れ。
 野生の、と云はむよりも、歴史の傳へむとするの眞意は、日本が國風は、借り物の思想や信仰を模倣すればそれ衰微にこそ向ひけれ、決して好轉する能はぬといふことだ。異國の學を手放しで信奉する、所謂る左翼的な人達に、若しも純粹に世直しの志が存するのであれば、その人らには今一度、歴史を繙く作業から始められんことを是非、促すものである。
[PR]

by sousiu | 2012-03-08 01:16 | 小論愚案

<< 勤皇唱始 清河八郎先生   “住まう”   >>