勤皇唱始 清河八郎先生  

●正三位、學習院教授、海軍中將、佐藤鐵太郎氏、大正十年天長佳節に曰く、
『天道是非の嘆あるは、眼前の成敗を以て、天意を忖度するの致す處にして、因果應報の天則は、嚴として常に明らかなり。東北諸藩たるもの必ずや、自ら省みて、首肯する處あるべきなり。而して、此時に際し(※明治御宇の初頭)最後迄王師に抗して、屈せざりし庄内が。當然嚴峻なる制裁を加へられるべきに反し、最も寛大なる處分を受けて、歸順の途に出づることを得たるは。一に、至仁至慈なる天恩の致す處なりとはいへ、抑もまた、之が因をなすものありて存するにあらざるなきを得んや。
 惟ふに。庄内の山河は、實に勤王の先驅者たる清河八郎を生めり。先生、志を當世に得ずして、常に白刃、身に薄るの危地に出入し、東潛西走、造次顛沛、安んずるの處なく、不幸終に刺客の毒刃に斃れ、恨を呑んで雄圖空しく畫餠に歸せり。人生の慘事。何物かこれに加んや。焉んぞ知らむ。天の庄内に酬るに、天朝の寛宏なる恩典を以てしたる所以のもの。實に、先生の孤忠を憐み、功を録して徳に、其郷里に報じたまへるにあらざるなきを』(大正十年天長佳節)と。(※は野生による)

●矧川志賀重昴氏、明治四十五年四月十四日、「正四位 清河八郎先生 五十年祭」(於淺草傳法院)に於て、祭壇下に立ちて述ぶるに、
『勤王論の提唱は、世人は薩長の專賣特許の如くに思ふが、焉んぞ知らむ。ずつとゞゝゝ其の以前に、而かも眞木和泉守と談じ、平野國臣、伊牟田眞風等を清河先生が頤使して薩藩に遊説せしむるに至つたのである』と。
 こは、いさゝか清河先生を見上げたものとして、他の先生を見下げた言辭であらう。清河八郎先生による『潛中始末』には、眞木紫灘先生と對面した樣子が記されてゐる。曰く、『下村より水田迄、八里の處、夜分に入りて相達す。水田と申すは、天滿宮の鎭守處にて、太宰府に續きたる九州第二天滿宮なり。則和泉守は、直弟大鳥井敬太方に蟄居せり。別に小一室を構へて、一切人に會するを得ず。併、近來は少しづゝ遊歴者などにも稀に會すると云ふ。~中略~ 思ひ寄らぬ尊客とて、此迄ありし事共、御互に相話し、自ら食物を製して、遠路を勞はる。如何樣人の信ずる程のある人物なれば、我も信の知己の如くに思はれ、西來の次第、其外とも別意なく相談す』とあるところをみれば、言辭は、畢竟、五十年祭に用意されたものであることが判る。とは云へ、過分となつた上下を足して半分で割つても、清河先生のその行動力と影響力、少々ならぬものであつたことが容易に識らされるのである。



 清河八郎正明先生とは。
 毎度の如く、徳富猪一郎翁の『近世日本國民史』から引用することを試みたい。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第四十六卷 ~文久大勢一變 上篇~』(昭和九年七月卅日『民友社』發行)に曰く、
『抑も浪人有志の中にて、尤も較著なる働きを做したるは、清河八郎、田中河内介を擧げねばならぬ。その中にも、清河の運動を以て、最も效果的とせねばならぬ。清河八郎は天保十年、羽前國東田川郡清川村に生る。本名は齋藤元司。自から地名によりて清河八郎と稱した。少にして不羈、弘化四年十八歳のとき、家を脱して江戸に赴き、東條一堂に學ぶ。而して同門の士、安積五郎と相得、兄弟の義を結ぶ。嘉永元年、東海道を經て京都に赴き、闕を拜し、勤王の志を起し、大阪、岡山、廣島等を巡遊し、歸途は高野、奈良、山田等を經、其の見聞を廣め、其の志氣を養うた。~中略~』

仝『九州の有志をして、決然として起たしめたるには、清河八郎の遊説の功、與りて最も大であつた。清河は當時の志士中にて、劍客であると同時に、學者でもあつた。~中略~
 彼は有馬新七、若しくは眞木保臣の如き主義の人と云ふよりも、寧ろ戰國時代の縱横、傾危の士と云ふ可き類にして、彼の志は尊皇よりも攘夷が主であつた。彼は固より其の目的の爲めには、手段などを頓著する漢ではなかつた。而して其の言行を見れば、誇大妄想狂者とも猜せらるゝ點が無いでも無かつたが、然も亦た決して非常識漢では無かつた。彼の意見は、九州の義士を募り、薩藩の力に頼りて、京畿に義旗を掲げ、主上を擁して、攘夷を斷行するにあつた』と。
 蘇峰翁も、誇大妄想狂者とは、これまた辛口であるが、されど、かく缺點をして若しも値引きされたとしても、如上の如き稱贊は清河先生の非凡たるを聊かも損なふものではない。寧ろ、これに華を添へるものである。
 それにしても、上記の言にはいさゝか補足が要せられねばならない。清河八郎先生は、「尊皇より攘夷」ではなく、時勢の趨くところ、清河先生の攘夷の炎が餘りにも激甚を極はめたるが故に、斯く見えたるに過ぎない。つまり、尊皇の志逞しくあるが爲めの攘夷だ。孝明帝の御心を奉戴したるが爲めの、必着すべき「攘夷」であつた。清河先生の、文久二年四月八日に御兩親に認めたる書翰によつて野生は斯く觀じるに至ることが出來る。
○清河先生、書翰に記すに、
今や夷狄、其外を侵す、幕府之を征する能はず。而して屡ば詔旨に違ふ矣。是に於て乎、天下士民始めて王權の衰廢を憂ふ。皆な徳川氏に背き、皇室を戴くの心有り。此乃天の此の際會を生ずる、誠に偶然ならざる也。陛下、善く此の際會に乘じ、赫然として奮怒せば、數百年頽廢の大權、復興す可き也。百姓數百年の罪、複謝す可き也』と。
 この書翰は所謂る「寺田屋事變」(文久二年四月廿三日)の約二週間前のもの。つまり世情も事態も切迫してゐた頃だ。よし清河先生がたとひ妄想狂患者であつたとしても、誰れしも感ずることなくんば能はぬ張り詰めたこの空氣の中で、覺悟した士の言に不實はあるまい。

 島津久光公上京に伴ひ計企された義擧は、からくも潛伏先の大阪薩摩藩邸内で祖語が生じ、清河先生は離別。爲めに寺田屋事件の遭難を免れたが、その後も油然として、尊皇攘夷の大旆を掲げるに至る。

●蘇峰 徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第五十二卷 ~文久元治の時局~』(昭和十一年八月十日『民友社』發行)に曰く、
『清河八郎は、何れかと云へば創業の才の勝ちたる漢であつた。九州を遊説して、九州の志士を蹶起せしめ、之を驅りて上國に來り集らしたるも、專ら清河及び田中河内介等の力であつた。されば相當の順序から云へば、寺田屋事變には、彼は當然參加す可き一人であつたが、その以前に彼は仲間離れをして、却て其爲めに其の厄難を免かれた。彼は決して難を避くる怯夫では無かつた』と。
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 野生は、清河八郎先生を敬慕する餘り、これを過分に宣傳するでない。又た、淺識を趣味的にひけらかすつもりでもない。
 固より、清河先生を山師や繪圖師、將た又た妄想狂患者と看做すが限界の、「勤皇」なんたるかを解し得ぬ人に向うて當て付けるでもない。
 野生が清河先生から學ばむとする、それ、尊皇が觀念上に止らず、つひに勅許なき日米修好通商條約調印、和宮親子内親王御降嫁の問題が尊皇志士を奮ひ立たせ、つまり尊皇が觀念から實行に及び、畢竟、勤皇へと移行した時代にあつて、その時代に躍動した一人、清河先生の赤心と勇氣、行動と覺悟を學ばんとするものである。
 時代が人をつくるのか、人が時代をつくるのか、野生には何とも答へることが出來ない。
 されど、時代の變節に於て、傑物が要せられる可きは答ふるまでもない。

 さて。尊皇から勤皇へと異動せらる次の時機到來は果たしていつなのだらう。
 その到來に、吾人が備へておく可きは何であるか。
 今日記したる日乘は、今月四日の記事からからうじて一筋の繋がりを持たせてゐる積もりである。(ほめ殺されさうになつたことゝ、セレブマンシヨンの廣告は別として)

 野生は猶ほ、清河先生に就て、少しく記す可きところがあらねばならぬ。
 野生の筆力乏しきが爲め、文章の前後不覺に就ては諒せられ給へ。乞ふ不明及び不足な點は、書肆で入手する能ふ御本によつて之を充足せられむことを。


 
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by sousiu | 2012-03-09 08:21 | 先人顯彰

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