正氣重ねて發生の時は必ずある也矣。 

 土曜日は、維新政党・新風の講演會で、卑見を披露。
 講演の内容は説明するに價せないので扠措き、所謂る右翼とは違ふ土俵で戰ふ人達の、純然たる熱氣を體感したことは野生にとつて良い刺戟であつた。
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 さういへば清河八郎正明先生に就ての話題を中斷してゐる。「勤皇唱始」「囘天倡始」の名を擅としてゐる清河先生も、それ以前に長らく語り繼がれ、研究され盡くした尊皇心養成の期間あつたればこそ、その人となつたことを忘れてはなるまい。

 諸説のあるも野生は、明治維新を、嘉永六年彼理來航から、明治四年の廢藩置縣までと定義してゐる。
 となればその期間は十八年だ。
 ところで、江戸幕府の創始者、家康の征夷大將軍に任ぜられたのが紀元二千二百六十三年、慶長八年であるから、幕府の壽命は紀元二千五百三十一年、明治四年までの二百六十八年間だ。
 さらに遡り、鎌倉幕府の創始者、源頼朝が征夷大將軍に任官したのが紀元一千八百五十二年、建久三年だ。(因みに、1192つくらう鎌倉幕府、是れ也。餘談ではあるが、近年では頼朝の實質的權力機構がそれ以前より存在したとの通説から耶蘇暦1185年を鎌倉幕府設立とするやうである。しかし如何なる理由があれ、野生は頼朝が天朝より征夷大將軍に任ぜられた1192年を鎌倉幕府設立の年と認識せねばならぬと思ふのである)
 つまり政權が武門に下り、その間、實に六百七十九年。この久しきを瓦解させるに要せられた時間は、意外にも僅か十八年であつた。
 勿論、時代の後押しがあつたことは爭ふ可からざる理由として擧げねばならない。だがしかし、さうした時代の要求に勝へ得る忠良臣民の働きがあつたことも又た忘れる可からざる事實である。この十八年間は、それ以前の六百六十年間があつたればこそ、だ。換言せば、六百六十年といふ、現世の住人では途轍もなく長く感じられるこの期間の集大成が、維新十八年といふ期間に凝縮されたのである。

 學校では、この六百六十年間に存在した、尊皇の大家あるを教へない。固より人の一命鴻毛の如く輕きとした時代に比すれば赫きも乏しいので、ドラマにもならない。あの徳富蘇峰翁でさへ、『元祿享保中間時代は、徳川幕府の演劇中に於ては、先づ、だれ氣味の一幕である。~中略~ 併し歴史は小説ではない。縱令其の山無しと雖も、時代の引き續きとして、書く可きだけは、書かねばならぬ。斯る時代を記録する史家の苦心は、讀者にはとても分る可き樣はないが、さりとて若干の諒解はありて然る可きであらう』(『近世日本國民史 第廿卷』大正十五年二月十七日「民友社」發行)と、珍しくその苦情を漏せてゐる。(因みに織田氏時代を一卷として起稿せられ、明治時代の百卷で脱稿された『近世日本國民史』に於て、彼理來航は第卅一卷である。記録の豐富でないことが理由の一つとしてあげられるも、如何に黒船來航以前が作家の書くに容易能はざる時代であり、以降が如何に筆の進む輕やかなりし時代であることか、自ずと察せらるゝといふものだ)

 されど、徳川泰平の時代と云ひながら、人材は決して皆無で無かつた。否、能く々ゝ觀察すれば、人材の寶庫だ。尤も人數を以て野生は寶庫と云ふでなく、その少數派たる各士に就て云ふ。皆が皆、幕府の權勢を恐れて林羅山とその子孫や關係者の如き怯懦者、小心者、不逞奴、盲人、宦官、癡漢ばかりでは無かつたのである。遺憾ながらも現在の埋れ木に藏される尊皇家あつてこそ、華華しき明治維新の舞臺に上がる役者の用意されたことを、吾人は決して忘却してはならぬのである。
 それゆゑに吾人は自ら歴史の筐底に祕せられた傑物偉人を再び起こして學び、出來得可くんば顯彰せねばならぬ。平成の今日、日本人は單なる戰前囘歸に止る可きではない筈だ。

 さて。平成第廿四年、時代は嘉永六年の如きであるか。野生は世相を公平にみて、累卵の初期であることは認めても、未だ同日の論として看做すことは出來ない。
 だがしかし、いづれにせよ、將來の近きと遠き、望むと望まざるとに關はらず、嘉永六年の如き、眞に危急の秋は否應無く再び巡つてくる。その際に我れらが備へておく可き大事は何であるか。按ずるに野生は、軍備然りと雖も、先ちて要せられる可きは、忠義の狗となるとも亂離の人とならぬの士であると思ふ。
 野生は、講演會終了後の新風の黨員や關係者諸兄と箸を交へながら、かくなる人士の多くあるをみ、日本未だ滅びざれば正氣重ねて發生の時は必ずあることを再び確信した次第である。


 奇しくも、同日講演前の正午、有志が集ひ、皇城を遙拜。
 天朝に連なる學問や思想を腦味噌で學ぶだけでなく、尊皇大家の志操を心でも學ばねばならぬ。かく志望した有志と共に野生も、寛政の高山彦九郎先生を平成の御代に顯彰せむことを決意。その名も『三條の會』。命名者は木川智君。いふまでもなく、「三條大橋」から命名したものである。
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 又たこの日の晝、國信隆士君が逮捕されたと御一報を賜はる。
 彼れも「三條の會」の參畫者。この日の遙拜には參加出來なかつたが、毎朝、麹町警察署に於て 宮城に向ひて姿勢を正し、つゝしんで遙拜を行ふことであらう。
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by sousiu | 2012-03-27 01:20 | 報告

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