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新井白石公 番外 王號考 

 白石公に就て、野生は彼れの政治的手腕を認めながら、一方、彼れの缺くる重大要素を呈した。
 それ極言すれば畢竟、新井白石公は、幕府中興の功勞者であるといへるも、決して、皇國中興の功勞者たり得ぬといふ結論となる。
 しかし、彼れの、將軍を國王と看做す重大なる過誤に就て、野生は必ずしも彼れひとりを責めるものではない。有體に云へば、當時の者らは大凡、大同小異であつた。

●徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 ~豐臣氏時代 戊篇~朝鮮役 中卷』(大正十五年二月十七日「民友社」發行)に曰く、
『當時は固より幕府全盛期で、誰一人將軍が、事實上に於ける、日本の統治者であるを、否定するものはなかつた。されば學者の中には、名實共に然かせんことを希うたものは、決して少くなかつた。中には彼等自身に、斯く信じ、斯く言ひ、斯く行うたるものさへあつた。例せば、太宰春臺の著と稱する、三王外記などには、將軍を稱するに王を以てし ー 憲王は即ち綱吉、文王は即ち家宣、章王は即ち家繼 ー 日本全國の統治者であることを表現し、天皇と稱するに、山城天皇を以てし、單に山城なる一地方の部分的の君主であるかの如く唱へてゐる。而して其の勅使を稱するに、聘使を以てし、將軍と 天皇とを、對立のものとしてゐる
 更らに又た將軍職を繼を稱して、大統を承くると云うてゐる。大統と云へば、固より天子以外に用ふ可き言葉ではあるまい。此れは太宰春臺一人ではない、所謂る徂徠流儀の學者などは、何れも其の通りであつた。否な、それが一般の通用であつた。乃ち多くの學者は、將軍あるを知りて、天皇あるを忘れてゐた』と。


 白石公歿して猶ほ、吾人は、王政復古を唱導した高山彦九郎先生の誕生まで、廿二年を俟たねばならなかつた。
 而、高山赤城先生の歿し、王政復古の大號令が渙發されるまで、吾人は更らに七十五年を俟たねばならなかつた。

 高山先生の未だ生を享けぬ白石公の存する此の時代、斯くの如き暗澹たる地上に於て、ともすれば當時の時代の趨勢に即掻き消されたるも、白石氏の「王號」に反對する意見、全く無いでも無かつた。

●雨森芳洲公、白石公への文書に曰く、『~前略~ 向(さ)きに聞く、這囘(このたび)信使(※前記したる朝鮮信使のこと)の來るや、接應の事例、前時と異るあり。而して其説皆な執事(※白石公のこと)の主張に出づと。思慮既に精しく、處置宜しきに適す。交隣の禮を正くし、無名の費を省き、沿路の臣民をして、患苦する所無からしむ。苟も執事微(なか)りせば、孰(たれか)能(よく)之に及ばむ。眞に所謂る仁人の言、其利博いかななるもの也』と。
 ↑↑この言は雨森公、前記したる白石公の朝鮮國信使に對する禮遇更革に就て評價したもの。固より批判の出でよう筈もない。

 併し乍ら、雨森公の云ひたいことは、これからだ。
○『 ~承前~ 尋(つ)いで承るに、内議、王と稱するの擧あり。而して其説亦た執事の主張に出づ。と。僕一たび之を聞き、且つ驚き、且つ痛む。竊かに怪しむ、執事の學問、見識、素より春秋の義に明なるを以て、而して乖剌顛倒、一に何んぞ此に至る哉。區々の褊性緘默するに忍びず、成事説かずの戒、聖訓に出づと雖も、過を改むるに、吝なる勿れの義、將さに執事に望まむとす。幸ひに採察せよ
 いつの世も、どこの地にも、喧嘩好きはゐる。而して、この喧嘩は、賣つた雨森公にではなく、賣られた白石公に原因も落度もあらねばならぬ。

○『 ~承前~ 竊かに惟ふに、源平相ひ軋りて以來、王綱日に弛る、絶えざること綫の如し。徒らに虚器を擁して、域内の共主となる。而して世々兵權を掌る者、名は大臣と雖も、實は乃ち國主たり。爵祿廢置皆な其手に出づ。遂ひに域内の人をして、復た天に對し、日に竝ぶの聖統の、巍々然として億兆臣民の上に據るあるを知らず。冠裳倒置、此より甚だしきと爲すは莫し。唯だ臣子恭順の一節、以て餼(左「食」+右「氣」=き)羊の告朔に當つ可きものは、敢て公然自から王號を朝鮮に稱せざるある耳(のみ)。
 夫れ我を稱して君と爲し、而して我辭せずんば、我即ち君也。我を呼んで臣と爲し、而して我怒らずんば、我即ち臣也。歴代の將家、敢て自ら王たらず、而して朝鮮稱するに殿下の書を以てし、欣然として輸納す。未だ嘗て之が爲めに一たびも辭せざるは、是れ王を以て自ら居る也。夫の自ら王たる者と、固より自ら間(へだて)無し』
 上記前段は歴史的にみて、武家政治の繁昌したる一方、皇室式微を述べたもの。臣子恭順を説くにある。後段は日朝國間の從來の慣例に就て述べたものだ。而、白石への批判は展開さるる。
○『 ~承前~ 然も此れ猶ほ恕す可き者ありて存す。今、乃ち歴代特に起るの定例を廢し、一切無稽の新規を創め、上は則ち恭順の義を失ひ、下は則ち祖上の法に悖る。吾、以爲らく、凡そ臣子たるもの、固より當(ま)さに從容規諫し、繼ぐに犯し爭ふを以てし、務めて其君をして、上に偪り、下を欺くの地に陷らざらしむべし。然して後、乃ち聖賢の書に負(そむ)かずと謂ふ可し、と。若し一言半句、恿(上「甬」+下「心」=よう)愚に渉り、必ず魏家の荀彧たらんと欲す。則ち但だに自から誤るのみならず、且つ以て君を誤る。吾は執事の必ず此を爲さゞるを知るや久し』

 雨森公は朱子學者、木下順庵の門下だ。白石公と同門だ。白石公は兄弟子のみならず、今や押しも押されぬ幕府直參であることに加へ、家宣の寵愛を得てゐる。對馬の一介の文學者に過ぎぬ雨森公では如何ともする能はず。けれ共、白石公に向うて、かの如き酷評の矢を放つたことは、當時と云はむよりも、後世にとつても頗る模範を示したと云うて宜い。

○『~承前~ 以聞(きくなら)く、諸侯王例の説あり、と。此れ甚だ謂れ無し。何となれば則ち、或は日本國武藏王と稱し、或は日本國關東王と稱す。是れ問ふことなくして、其の我が國諸侯王たるを知る可き也。若し專ら國號を以て王字の上に加ふ、則ち國内無上の尊稱たる、豈に昭然に非ずや。設し或は此の如くして、而して以て我が國諸侯王たる可くんば、則ち彼の是れ朝鮮國王なるもの、亦た將さに以て其國諸侯王たらんとす。烏乎(いづくん)ぞ可ならんや』
 白石公が、嘗て、諸侯に王字を冠した例ありといふことを聞いたので、將軍=國王も可也、といふのであれば、それは誤りである、と説いたもの。百歩讓つて、その例ありとして、武藏王や關東王と稱する者ありとするならば、日本國王はやはり、天皇であらねばならぬ、と訴へたものだ。實に痛快とはこの文句のことではないか。

 而して、雨森公曰く、
○『大君の稱、固より穩(おだやか)ならざるに似たり。王と稱するの擧、亦た失と爲す。宜なるかな後世、今日の羅山を罪する者を以て、執事を罪すべきを。即ち吾は執事の將た何を以て、自ら諉(左「言」+右「委」=あざむく、この場合、あざむか)んことを恐る。請ふ、三思を加へよ。慷慨の極、累(しき)りに狂言を發す、切に自ら振慄す。唯だ鬼門の一謫を待つ耳。謹此不備(つゝしんでこゝにふび)。(正徳元年)三月十四日』と。

 雨森公の他にも王號反對の見識者あり。同じく木下順庵門下の松浦霞沼公だ。松浦公は、白石の著したる『殊號事略』に對して、『殊號事略考正』を著して、その不足と云はんか非と云はんか、改める可きを改め正す可きを正し江湖に説いた。

 これに對して白石は、その著『折たく柴の記』に兩人をして『對馬の國にありつる、なま學匠』と揶揄してゐることからも、如何に件の癪に障つたことか、思ひ知ることが出來る。

 野生は同門にある彼れらの喧嘩を紹介することを目的としない。
 小數派であることを知りながら、皇室を尊ぶの心構へを天下に向うて訴へた人士があつたことを紹介出來れば、それで足る。

 以下、ふたつの新井白石觀を紹介し、一ト先づ筆を措く。


●内藤恥叟翁曰く、『其幕府を以て、毎事古の皇朝にひとしくし、其典禮を定めんことを謀りしは、名分を知らざるの甚しき者と云ふべし。既に此持論あり、故に國王と稱し、某廟と稱す、其他の名義、皆王朝にひとしくす。是、白石の罪を、萬世に得る所以なり』と。

●徳富猪一郎翁曰く、『白石は歴史家だ。されば日本の國體に就ても、極めて博大の知識を持てゐた。彼は 皇室に對しても、惓々の誠を竭したことは、少くない。彼を稱して、臣節を解せざる者と云ふは、彼の心事を誣ふる者である。されど彼は其の仕ふる所に忠なるの餘、皇室對幕府の干係に於ては、彼の眼中には、幕府ありて、殆んど 皇室はなかつた』と。




※いづれも括弧及び括弧内は野生による。

by sousiu | 2012-04-08 21:28 | 日々所感

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