竹内式部先生と、所謂る『寶暦事件』 

 先日、新井白石を通じて正徳の時代を記した。
 それから五十年。征夷大將軍は、家宣から家繼、家繼から幕府中興の吉宗を經て、九代目の家重となつた。
 家繼の在任期間は僅か三年。その次の吉宗は、徳川家中興を成したるも、それを相續したる家重は、固より、その資格者の素質に乏しかつた。

●徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『寶暦明和の時代は、天下泰平、徳川幕府は、萬々世と祝ふ可き皮相を具へてゐた。然もそれは唯だ皮相だ。その暗流は、或は沸騰し、或は汎濫し、或は横溢せんとするの勢を生じ、且つ生せんとしつゝあつた。一言すれば、愚者には安心の持節で、識者には不安心の持節であつた。 ~中略~ (當時に於ける)國典の研究は、必ずしも直接に、幕府制度に對する打撃でもなく、脅威でもなかつた。國學者は寧ろ幕府の現状に向つて恭順であり、而して幕府の保護の下に、其の發達の若干を成就した。然も其の本質に於て、國學其物は、危險性を帶びてゐた。少くとも幕府制度と國學とは、其の根本觀念に於て、相ひ兩立し難きものがあつた。是等の事情は、國學の諸先輩も、果してそれを自覺したる乎。幕府の當局者も、それに氣付きたる乎。恐らくは當時に於ては、兩者共に無我夢中であつたであらう』と。
※括弧及び括弧内は野生による。

 そのやうな折、所謂る「寶暦事件」が出來した。

 「寶暦事件」とは何か。

●大久保次夫氏『竹内式部』(昭和十八年十一月廿日「國民社」發行)に曰く、
『寶暦事件とは何んぞや。簡單に云へば、それは、御好學にわたらせられた 桃園天皇に對し奉り、竹内式部の門弟であつた二三の近臣が、垂加流の學説を進講し、それが攝政關白などといふ上長と、幕府の忌憚に觸れ、近臣數多の解職處分と、竹内式部の追放といふ結果を來したところの、一見頗る簡單なやうで、その實勢の及ぶところ近世に於ける尊皇斥霸の實踐的運動の嚆矢をなしたといふ歴史上頗る意義深き事件の謂である』と。

 竹内式部先生に就て識る人も、殘念乍ら現代では多くあらぬのかも識れない。そは、野生にとつても、尊皇家にとつても、日本にとつても遺憾とす可きことである。竹内先生、決して國史の埋れ木に藏される可き人物でないことは、固より知る人ぞ、識る。そは、「寶暦事件」其のものの影響が、當時に與へたるその小ではなく、將來に與へたるその大なることを以て識る可しである。
●徳富猪一郎翁、同上に曰く、
凡そ徳川幕府時代を通じて、眇乎たる一個の浪人者として、竹内式部程、大なる問題を惹起したる者はあるまい。固より熊澤とか、山鹿とか、若しくは由井正雪とか、事件としては、隨分大なる波紋を時代に畫きたる者あつた。されど彼等の事は、一も朝廷には直接にも、間接にも、關係なかつた。云はゞ對幕府だけに止まつた。されど竹内事件は、朝廷の上に於ける事件だ。特に日本の近世に於ける尊皇思想の發達には、最も重大なる關係がある』と。
●本多辰次郎氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十五日「日本學術普及會」發行)に曰く、
『寶暦事件、此の事件は徳川時代に於て勤王運動の濫觴である。從來、尊王論を唱へた者は隨分ある。山崎闇齋でも、熊澤蕃山や山鹿素行でも尊王論を唱道した。加之、親藩の水戸義公なども尊王の精神の厚い事は其の言行に明かである。併しながら從來、是等諸士の論議は猶尊王、勤王と言ふに止まり、排幕斥霸といふ點までは論及して居ない。或は微妙な言外の意味までも論及すれば、排幕斥霸といふ事になるかも知れないが、兔も角表面にはソーは見えない。幕府は實權の中心として置て、扨て其の上に朝廷を尊崇し、王事に勤むるといふにある。然るに寶暦事件に至ては尊王斥霸の論鋒が鮮かに認め得られる。又單に著書や講説で説を立てたといふのみならず、多少運動と稱し得べき要素をも含んでゐる。此の二點に於て此の寶暦事件は、徳川時代に於ける勤王論の曉鐘と言はるゝのである』と。

 竹内式部先生は、山崎闇齋先生を學祖とする崎門學派に屬する人だ。殊に絅齋淺見安正先生の思想を承けられた、烈々火を吐くの大義名分論者であり、そして、尊皇家であつた。

 而して、特筆大書す可きは、竹内先生の御門人の主なる人々が、新進氣鋭の堂上公卿の諸公であつたことだ。
 一應、記録として、以下にその御尊名を拜記する。
   正親町三條帥大納言公積
   烏丸大納言光胤
   今出川中納言公言
   徳大寺大納言公城
   坊城中納言俊逸
   東久世中納言通積
   岩倉前中納言恆具
   綾小路宰相有美
   町尻三位説久
   伏原三位宣條
   植松三位雅久
   高倉右兵衞督永秀
   高野少將隆古
   西洞院少納言時名
   中院少將通維
   西大路少將隆共
   冷泉新少將爲泰
   勘解由小路左中辨資望
   日野右中辨資枝
   中御門權右中辨俊臣
   正親町三條侍從實同
   櫻井刑部權大輔氏福
   町尻右馬頭説望
   裏松左少辨光世
   岩倉左兵衞佐尚具
   船橋前右兵衞佐親賢
   六角兵部大輔知通
   高丘大藏大輔敬季
   錦小路典藥助頼尚
   七條左馬頭隆房
   他。(敬稱略)


 上記もて、竹内式部先生が、如何に、堂上に對して影響を把持したか、瞭然と云はねばなるまい。
 焉んぞ幕府の知らん、京都に於て竹内先生の點したる其の火は、やがて尊皇倒幕維新の狼煙となりて薩摩からも蝦夷からも見らるゝほどに揚がらむとは。
●大久保次夫氏、同上に曰く、
『式部が、その教育の實施に際し、四書五經、小學などの儒書の外、保建大記や靖獻遺言等を講義したことは、前にも述べた通りであるが、この間折に觸れ、時に應じて、天業恢宏の道を説き、皇室の衰運を挽囘して、これを我國本來の姿に還元せしむる爲めには、至尊を始め奉り、朝臣一統學問を勵み、古道を明かにし、治國安民の策を考究せねばならぬとの趣旨を強調したのである
『斯樣に式部の學問は、國體を重んじ、大義名分を明かにし、皇室に歸一するの思想を敷衍するにあつて、從つて彼は、單なる書齋的の學者でなく、寧ろ教育家的學者と言はるべきであつたが、既に前節で紹介した他の學者の如く、一代の文教を稗補したといふ事實は甚だ尠い。彼の面目は斯かる學説や思想を超えた人格の上に、即ちその教育者としての感化力の非凡であつた點にあるやうである』と。
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 昨夜、突如、三澤浩一先輩より電話あり。不吉な豫感がしたが、幸ひにも先輩はノンアルコールであつた。
 而も珍しく、河原イヂメは無く、眞面目な話で終始。期せずして、竹内式部先生の話題となつたので、今日今度びの記事を思ひ立つた次第である。


 惜しい哉、竹内式部先生の諸門人方々に與へたる著書は、『奉公心得書』のみだ。
 これから、締切りが遲れてゐる『芳論新報』を書き上げねばならない。
 『奉公心得書』に就て、續く、か、どうかは野生の氣分次第だ。
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by sousiu | 2012-04-18 23:34 | 先人顯彰

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