竹内式部先生と、時代背景 

 竹内式部先生の『奉公心得書』(ホウコウコヽロエガキ)に就て、香川敬三公は明治廿四年九月、前掲書にて斯く述べてゐる。
●從一位 勳一等 維新後樞密顧問官香川敬三公の曰く、
『奉公心得書一篇ハ。   桃園院天皇 =桃園院天皇ハ櫻町院天皇第一ノ皇子ニシテ聰明ニ渡ラセラレ[五字分墨字]頗ル  後光明帝ニ似サセラレシト云フ= 寶暦年間。權大納言言徳大寺公城。權大納言久我敏通。權大納言正親町三條公積。權中納言烏丸光胤。權中納言坊城俊逸。權中納言今出川公言。前權中納言岩倉恆具。右兵衞督高倉永秀。右中將高野隆古。少納言西洞院時名。左中辨勘解由小路資望。左中將中院通繼。左兵衞佐岩倉尚具ヲ始メ。朝紳廿餘人。王室ノ式微ヲ憂ヒ。竊カニ連署血盟シテ。王政復古ノ策ヲ計畫セラレシ時。竹内式部 =名ハ敬持、羞齋ト號ス= ナル者。同盟ノ朝紳ニ忠告砥礪スル所ノ文ナリ』と。※原文マヽ。
 香川公は、水戸藩士。維新前は神官同盟、陸援隊副隊長ほかを歴任し、皇國の中興の御爲め寄與するところ決して尠しとせなかつた人である。

 他方、史家の觀察眼もて之を尋ねるに、『奉公心得書』は如何なる價を見出す可き乎。
●徳富猪一郎翁、前掲書に曰く、
『今日より之(奉公心得書)を見れば、別段の寄説でもなく、卓論でもなく、亦た何等新異の見と云ふ可き程のものでもない』
『寧ろ餘りに平易、淡泊にして、此れが竹内事件の張本人の文字とも覺えられず。但だ天津日繼の 天皇が、神種神孫に在せば、一切を擧げて 天皇に奉仕す可しとの、所謂る 皇室中心主義を、眞甲より打出したる一點丈が、尤も聳聽するに足るものがある。惟ふに此の心得書は、僅かに彼が意見の一端を、語りたるに過ぎなかつたであらう』
『奉公心得書は、堂上方の門人に、其の朝廷に奉仕し、君側に勤務する心得を示したるもの。未だ竹内式部の學説の全豹を窺ふに足らぬ。されば他の方面に向つて、之を尋ねなければならぬ。ところが彼自からの書き殘したるものとては、殆んど無い』と。※括弧は野生による。

●大久保次夫氏の曰く、
『「奉公心得書」にしてからが、本書に彼の學説が披瀝されてあるものとは、到底考へられない。又本書は純粹な學術書では勿論ない。併しながら本書には、彼の思想、殊に 皇室に對する彼の思想が端的に示されてはある。これを知る事によつて彼の學説と稱すべきものが自らにして窺知し得るやうに思はれる。彼の本領とするところは、その學識や學説にあつたのではなく、寧ろその全人格的なひととなりの上にあつた如くであるから、この「奉公心得書」のみによつて彼の思想や、その思想的感化力を知らうとするのは、いささか的外れの感がなくもない。要するにその思想の一端を知る便宜のために、この書は理解されるべきである』と。

 上記理由に據りて、蘇峰翁は、竹内先生の御門人であつた菊地嘉典公の筆記したる『竹内式部神代卷口授』や他の資料を蒐集して、式部先生の御偉業を審らかに繙かむとする。一方、大久保氏は、竹内先生の師である山崎闇斎、淺見絅齋兩先生の思想から之を繙かむとす。※尤も蘇峰翁は、既に「近世日本國民史」で闇齋學に就て紙面を割いてゐる爲め、重複を避ける爲めに御門人に筆力を籠めたのであらうが。
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 されど野生は、御兩人による研究の成果をこのうへ茲へ抄録する作業を必要としない。
 當時の世相と、式部先生の功績を掲げることが出來れば、それを諒とする。



 式部先生の偉業の一端を識るには、式部先生の生きた時代を知らねばならぬ。
 寶暦を前後とするこの時代は、一體、如何なる状態にあつたか。
●大久保次夫氏(仝)
『言ふ迄もなく家康が、馬上に天下を掌握して、征夷大將軍に任じて以來、全國の政令は一に江戸幕府に發し、上は朝臣の任免から、下は三百諸侯の陟黜に至る迄、凡て朝廷の意思の如何を顧みることなく、獨斷專行を例とし、少しでも、幕府の志に違ふやうの事があれば、嚴重なる譴責を加へたから、畏くも歴代の 天皇におかせられては、何等か爲す所あらんとしても、しかも一として叡慮の如くになす事が出來ず、如何に些細なことにでも、幕府の干渉壓迫があつたのである。

 又京都に常置せられてゐた幕府の役人達は、畏多くも、皇室に關する諸經費を一錢でも半錢でも削減することに汲々とし。また斯くて諸費用を節減する事が多ければ多い程、功績拔群といふ事になり、他日の榮進が、約束されるといふ情ない情態であつたから、從つて例へば吉野山に櫻を見たいと思召しされても、それは費用がかかるから、所司代方面からの干渉があるといふわけであつた

 皇室でさへ、斯く迄御不自由な環境に置かれてゐたのであるから、宮中に奉仕する朝臣達の生活も從つて貧弱を極め、皆内職によつて、辛くも糊口を塗してゐたといふことである。併もその内職たるや、花かるたの製造だつたといふに至つては、寧ろ憤然たらざるを得ない』


 あまりにもと云へばあまりにも。幕府の權勢、その及ぶところ、今に記すも躊躇はざる可からざるものがある。

 かくなる時代下、榮華と富貴と權力を誇つてゐた江戸にあつて、京都に於ける竹内式部先生の活動と、鐵心尊皇の志を、吾人は敬服せずば止まず。
 然も、式部先生知つてか知らいでか、前途、青天の霹靂は式部先生の頭上に降されんことを。



 この締め方だと續けぬわけにはなるまい・・・。續く。
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by sousiu | 2012-04-20 14:37 | 先人顯彰

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