竹内式部先生の受難 

 承前。

 かゝる徳川幕府の壓迫を一身に被りたる京都にあつて、竹内式部先生の運動は、公家方有志に幾許の自信と勇氣を齎せたことか。否、言葉を精確に用ふる可きとするならば、竹内式部先生の運動及び、垂加神道と闇齋學が、だ。

 寶暦の御代、第百十六代 桃園天皇は、御英邁の 天皇にましました。
 桃園天皇は、寶算七歳にて御即位あそばされ、十五歳にして、山崎闇齋先生の學を講じ給うたことが記録に遺つてゐる。
 寶暦事件(寶暦七、八年)では、寶算十七、八歳の交であつた。

 侍臣徳大寺大納言公城卿は、「史記」を侍讀し、而、「日本書紀」に及んだ。(徳大寺公城卿日記)
 同卿は、即はち、式部先生の御門人だ。やがて、
主上 桃園院天皇英明に御座しまし、式部の學説を側聞あらせられ、叡感の餘り深く大御心を寄せさせられた』(本多辰次郎氏『歴史講座 勤王論之發達』)
 卿の欣感、果たして如何なるものであつたらう。我れらはその身にあらざれば、この大を計ることこそ能はざるも、これが大であること丈は拜察するに六ケ敷くあるまい。

 やがて式部先生一派の有志公家方々は、垂加神道の御進講に及ぶ。

 
 古言に曰く、好事、魔多し、と。かくして青天の霹靂は訪れた。
『一方に於て、徳大寺公城等が、千載一遇として、垂加説を、桃園天皇に鼓吹し奉りつゝあるに際し、他方には、容易ならぬ猜疑の眼を放つて此の形勢を眺め、方(ま)さに一大打撃を下さんとする者あるの危機に瀕した。竹内式部門人の一味は、此れに氣付いた乎、氣付かなかつた乎。何れにしても世の中の事は、彼等の思ふ樣に、平々坦々とは參らなかつた。
 然も此の如く打撃の手を、彼等に加へたのは、關東(※幕府のこと)の手筋ではなかつた。否な寧ろ其の張本は、公家仲間であつた』(徳富猪一郎翁『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』)

 竹内式部先生と御門人方々に愈々壓迫の手は伸びた。壓迫者は、問題ならぬを問題とし、事件ならぬを事件せしめんと欲した。その壓迫の發起人は、關白一條道香公はじめ、攝家、兩傳奏、而して吉田神道の本家、吉田兼雄氏であつた。

○本多辰次郎氏の曰く(仝)
『抑「日本書紀」神代卷は古來白川・吉田の兩家には種々の祕説がありて、御前講には必ず此の二家の中に於て、御進講申し上げる例であるのに、今垂加流の新説を宸聽に達することゝ成つたのは、二家に取りては大事件である、加之垂加流に於ては、卜部家の神道は佛説を交へて、我國古來の惟神の道で無いと非難する故、是等の家では默止すべからざる勢に進んで參た、かてゝ加へて種々な蜚語風説も傳唱せられ、非難攻撃が式部の一身に蝟集する事と成た』と。

○徳富猪一郎翁の曰く(仝)
『吉田家は、白川家と共に、堂上に於ける神道の本家だ。特に吉田家は先世以來、神道長上と稱し、全國の神職を總管し、神學の指南家だ。當時の主は、吉田從二位神祇權大副兼雄であつた。彼が斯く運動したのは、竹内式部が、自家の繩張を侵すを、安からず思うた爲めであらう』と。


 愚案。佛法を排斥するだけでなく、崎門學の大義名分論は、やがて討幕の急先鋒たる思想となつたことからも、幕府側にとりてみれば既に危險思想と看做されてゐた。畢竟、公家方内にこれを歡迎する人があると、一方、幕府による災ひを忌避せんとこれを歡迎すべからざる人が生じたのも無理からぬこと乎。後者を單なる公家内に於ける日和見主義の現状維持派と觀するは聊か酷評とも云へなくもなし。固より吾人が爲す可きは、後者を裁定することに非ず、後者を以て當時の朝野に於ける幕府の權勢如何に猛烈なるかを察する可し。而して、この時代背景に立たされた式部先生の運動と志を識ることが出來れば、それで充分である。
 式部先生は啻に當時の堂上にのみ勇氣と自信を示されたのではない。後進たる吾人に對して遺憾なく手本と模範を示された。奇しくもおよそ百年後、彼理來航あり。世情噪がしくあつて勤皇の士、陸續として、出でる可くして、出でた。有志は皆、京へ上り、對手たる幕府側も京を固めんと上り、京都は騷然たる歴史の舞臺と變化した。皇國に於て、これが變はるには、朝廷は沒交渉でないことを、寶暦事件の犧牲から百年後の式部先生の後進(吾人からみる先進)は學び、實行したのである。
 舶來の大正デモクラシーから端を發した多數決盲信者には、皇國に於ける式部先生の偉大が理解し難からう。諸國はいざ識らず、皇國に於て、これを清らかとするに、川に喩へれば、何十年と河口を掃除しても、そは空しくある而已。革命とは、弱者、非生産者、不平者をそゝのかし數の大を以て下から上に突き上げる運動だ。皇國にあつて維新は、いつも上から下に布告されるものだ。他國による解放運動、獨立運動の「宣言」と、皇國に於ける畏れ多き維新の「王政復古の大號令」を同一視する勿れ。

 閑話休題。桃園天皇に於かれましては、反垂加流一派による再三再四の上奏と諫言にも御納得あそばされず。あくまでも垂加神道とその學説を御抛却なされなかつた。
『至尊の垂加流に對する御執心は、決して尋常一樣ではなかつた。如何に女院や、攝家や、其他の者共が、手を代へ品を換へ、之を止めさせ給はんと企つるも、決してその通りに成させられなかつた。 ~中略~ 十八歳の御若齡として、其の強毅不屈にてましますこと、實に驚き入ると申すの他はあるまい』(徳富猪一郎翁、前掲書)


 然るに無念、非難蜚語陰謀もて、遂に式部先生は糺問せられた。固より罪名もあやふやであり、取調る側が押され、時に感動すらしてしまふことは、式部先生著述の『糺問次第』にもよつても明らかだ。苦慮した攝家一列は幕府の手を借りるに至り、所謂る公家主導、武家受動の關係もて到頭、式部先生は京都より斥けられ、御門人方々は永蟄居ほかを命ぜられ、式部派は排除された。桃園天皇の宸襟は如何なるものであらせられたか。徳富翁は『惟ふに、定めて血を絞る思をなし給うて』と恐察してゐる。

 竹内式部先生の無念も如何程のことであつたらう。京都を追放された式部先生は、御内儀、御子息の主計氏、御息女のしま氏の四人で伊勢の宇治山田に住むことゝなつた。
 その四年後の寶暦十二年。桃園天皇、寶算僅かに廿二歳を以て崩御遊ばされた。式部先生、入つてはならぬと嚴命された京都へ上り、御所の御前の芝生に泣きぬれて悼みまゐらせた。(徳大寺公城卿談)

 式部先生、この時の上京と、はからずも八年後に出來する山縣大貳、藤井右門先生他による『明和事件』の連累者として嫌疑を掛けられ、八丈島に流罪となる。至誠至純たる尊皇家に對する彈壓は、決して、安政の時代のみではない。立志する人は、總じて受難者たる可き宿命を避けられない。であるからこそ、その情熱は、尊い。
 式部先生、明和四年十一月廿日、途中の三宅島の伊ケ谷村にて病ひを患ひ、同年十二月五日、歿す。病名は濕病と記録に傳へられてゐる。
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 以下、本多辰次郎氏の觀察に從へば、「寶暦事件」は、時代の産ましめた悲劇とも云へるが奈何。
●同氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十三日「日本學術普及會」發行)に曰く、
『此の寶暦明和の事件は、一寸見れば關白達が只管幕府の御機嫌を取ることを勉めて居て、勤王の精神の發達を挫折せしめた樣に見えるけれども、式部は強ち過激の擧動を爲る人で無くとも、其の門人たる堂上衆の中には少壯活溌の人もあり、過激に流れはせぬかといふ憂もある、若し過激に亘るやうなことが有て、幕府から先手を着けられやうものなら、隨分上御一人に迄も御迷惑を懸けるやうな畏多い始末にならぬとも限らぬ、夫故關白とか武傳とかいふ責任の位置に在る人に取りては、大事に至らぬ前に處置する必要がある。何を申すも理論は力に勝つことは出來ぬ故、幕府の激怒を招かぬやう勉める必要が有るとすれば、近衞關白の處置は先づ至當と申さねばなるまい、併しながら公家方に於ては、斯る結果に終つたのは關白始め心に快き譯ではあるまい。心中は必ず哭いて居られたに相違あるまい、まして式部の門弟となりし堂上等の遺憾は幾何であらうか、陰忍に陰忍して、表面は一應沈靜に歸した樣なものゝ、裏面は一層敵愾心を強めたに相違ない、明治維新に參與した功臣には、此の時寶暦事件に關係した家の人々に比較的多いのも注目に値する事實である』と。
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by sousiu | 2012-04-23 01:50 | 先人顯彰

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