贈正四位 竹内式部先生評  

●香川敬三公、『竹内式部奉公心得書』(明治廿四年九月)に曰く、
嗚呼、今上ノ太政ヲ收復シ給ヒシ。慶應丁卯ノ歳ヲ距ル。一百餘年前。既ニ斯人有リ。明治中興ノ鴻業。固ヨリ  聖徳ノ然ラシムル所ト雖モ。其淵源スル所。蓋シ亦遠シ矣。予頃ロ偶マ此篇(※奉公心得書)ヲ得テ之ヲ讀ムニ。氣節凜然。忠誠ノ心自ラ言外ニ溢ル。人臣タル者ノ最モ當ニ服膺スヘキ所ナリ。反讀再三遂ニ印刷ニ付シ。以テ同朋ニ頒ツト云フ』と。


●星野恒博士、『竹内式部君事迹考』(明治卅二年七月卅一日「冨士房」發行)に曰く、
『抑、式部君の執る所は、王室の衰運を挽囘して昔日の隆盛に復し、幕府の政權を收め、萬機親裁に出でしめんと欲するの外、他念なし、然れども事本末あり、遽に其成るを求むべからず、故に先づ根本を培擁し、君臣心を一にして、古道を講究し、智を研き徳を修め、經邦治民の要を明にし、天下臣民の悦服を得、以て他日の機會を待たんとす』と。


●徳富猪一郎翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『式部は學者として、何等の永久に傳ふ可き著作を留めてゐない。されど彼の思想は、山崎闇齋に溯らねばならぬ。彼は靖獻遺言の一面に於ては、淺見絅齋の意見の代表者であり、日本書紀、中臣祓等に於ては、玉木葦齋の傳統を承くる一人だ。即ち何れにしても山崎闇齋は、竹内式部の本尊であり、祖師であり、先生であつた。~中略~ 然も深山の奧、木葉を潛る水滴の水は、やがて滔々たる長江大河となる。世に大なる支配者あるも、未だ思想の支配者程、大なる者はない。世に有力なる運動者あるも、未だ思想の傳播者程、大なる者はない。此點に於ては、山崎闇齋は勿論、其の孫弟子たる竹内式部の如きも、正しく其人だ』と。


●竹内式部先生追想一掬會編『贈正四位 竹内式部先生』(「一掬會」發行、戰前なるも發行年月は不明也)に曰く、
先生はなんとかして徳川幕府より政治を取りあげ、天皇御みづから國を治め給ふ在りがたい御代にしたいと日夜それのみ心にかけてゐられたのであるが、その忠義の志は人の眞似の出來ぬくらゐで「奉公心得書」といふものを書いて 皇室に忠義をつくすべきことをさとし門弟へ示されたこともある。その志をとげるには、先づ 天子樣に學問をしていたゞかねばならぬとかんがへられたのである。幸ひ先生の子弟としての公卿樣の中でも正親町、三條、西の洞院といふ方々がおそばにお勤めになるので、この方々から恐れ多くも時の 桃園天皇へ先生の講義を取次いで御進講申上げることになつたのである。それまでの 天子樣には御學問を遊ばさぬやうに徳川幕府がおとめ申してをつたが、それでは何日までたつても 天皇御みづから國を治め給ふといふことがおわかりにならぬので、先生は公卿樣方の力で御學問を遊ばすやうに願うたのである』と。
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●平泉澄先生、『日本學叢書 第六卷』(昭和十四年七月十五日「雄山閣」發行)に曰く、
『先生は崎門の傳統を受けて國體の根本を究め、此の原理に立つて當時の政治制度學問思想を批判し、今日の誤を正して往代の盛時に復せんが爲には、朝廷に正學を興すを以て第一の急務と考へ、是に於いて公卿の指導に全力を傾注せられました。 ~中略~ 是に於いて朝廷の學風一變し、上下競うて國體の學を講究し、古道を明かにせんとするに至りました。これこそはやがて明治維新の大運動の先驅となつたものとして、わが國の歴史に於いて最も注意すべき所の一つであります』と。
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●大久保次夫氏、『竹内式部』(昭和十八年十一月廿日「國民社」發行)に曰く、
『思ふに、式部の大義名分論に基く王政復古の志は、當路の壓迫に遭つて、これを實現するには至らなかつたが、その思想は、綿々として滅びず、明治維新の大立者岩倉具視も亦父祖の後をうけて、式部の學統に屬したものと謂はれる。明治の鴻業は、劍によつて成らず、學によつて成つたものであるが、その淵源に遡れば、水戸の大日本史、頼山陽の日本外史、又加茂、本居、平田等國學諸大人の著述による大義名分の思潮が、かの旺盛な尊王論を釀成したものである。又淺見絅齋の靖獻遺言、栗山潛鋒の保健大記等が、尊王論者の教科書となつた事も著明の事實である。併し乍ら斯くの如き大義名分論を以て、尊王の實際的運動の端緒を開いた者は、實に竹内式部を以て嚆矢とする』と。



 「竹内式部先生」措筆。
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by sousiu | 2012-04-24 00:10 | 先人顯彰

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