山縣大貳先生と、所謂る『明和事件』  

 寶暦事件に觸れたれば、明和事件に就ても觸れねばならない。
 兩者の時間を隔てること八年。政權が武門に下る凡そ七百年の時間からみれば、八年はほゞ同時期と見て差し支へあるまい。
 此の二つの事件は發生直後から、尾鰭をつけつゝ、西へ東へ、武士から町人までの口を借りて廣範圍を驅け巡つた。よつて當時から色々な書物が有つて、面白をかしく傳へたものまであり、隨分紛はしい説があるやうだ。中には擧兵の計畫があつた如く記してある書物もあるが、公平にみても、それを斷定するにはもう少しの研究が野生に必要だ。しかしいづれにせよ、吾人は歴史を讀み解くに當たり、かうした大膽な風聞を生ぜしめた微妙な時代の變化と、人心の願望をそこに窺ひ識ることが出來る。

●文部省圖書監修官 丸山國雄氏、『勤皇烈士に學べ 東京新聞社編』(昭和十八年八月卅一日「建設社」發行)に曰く、
『世に寶暦・明和と稱するが、寶暦事件とは、一部の堂上公卿が竹内式部の學説に基いて、神書を 桃園天皇に進講し奉れることが、攝家の忌憚に觸れて處罰せられたものであり、明和事件は山縣大貳が尊皇抑霸の思想を論じて幕府の忌憚に觸れて罰せられた事件である。
 これらの兩事件は、尊皇思想を鼓吹し、朝權發揚の端緒をなすものであつて、式部、大貳共に山崎闇齋の學説に屬するものであるが、兩者は相識の間に非ず、たゞ殆ど時を同じうして尊皇抑霸思想を唱へたに止まる』と。

 寶暦事件は京都に於て公卿方を導かんとし。明和事件は江戸に於て多數の門人を導かんとした。前者は堂上の忌諱に觸れ、後者は幕府の忌諱に觸れた。

 だが觀察すれば、兩事件が沒交渉の干繋であつたか否かは兎も角として、嚴正に云はしめれば強ち無關係の干繋では無かつた。
 寶暦事件の舞臺に於て、その主人公とも云ふ可き竹内式部先生は松岡仲良を師とし、後、松岡氏の誘掖により彼れの師である玉木葦齋先生に就て學んだ。葦齋先生は、崎門三傑の一人、淺見絅齋大人御一門。
 一方、明和事件の主人公と云ふ可き山縣大貳先生は、加賀美櫻塢先生を師とする。櫻塢先生は、是れ又た、崎門三傑の一人、三宅尚齋大人御一門。
 つまり、兩者とも山崎闇齋先生を源流とする、崎門の學派だ。さらば、自づと、その宿志は共通してゐること分明である。
 而、この兩者の事件は、江戸時代に幕を降ろす可くの前途に齎す影響、至大といふ點に於ても、吾人は共通視せねばならぬ。


 件の概略は、山縣大貳先生が江戸に於て、多くの門人に尊皇斥霸の所説を教授してゐたことが、上野圀小幡の領主織田美濃守信邦の用人・松原郡太夫や、同家領内にある崇福寺の住職梅叟ら心なき者共の個利、保身に惡用せられ、遂に幕府の知るところとなり、明和四年八月廿一日、主動者と目された山縣大貳先生が死罪、藤井右門先生(※下記詳細)が磔刑を宣告され、翌廿二日に刑に處せられた事件である。


※藤井右門公は、赤穗淺野家家老、藤井又左衞門宗茂の長男。幼名、吉太郎。
享保廿年、十六歳で京都に遊び、竹内式部門に入る。藤井大和守忠義の養嗣子となり、吉太郎より直明と名する。
寶暦元年、從五位大和守に昇任。八十宮御家司となり、皇學所教官を兼ねた。
寶暦事件が出來、江戸に出でる。名を「右門」と改める。
著書に『皇統嗟談』。尊皇の士、その人也。



 寶暦事件により京都を追放せられ、伊勢國に寓し、蓬莱尚賢大人(※蓬莱尚賢先生。内宮權禰宜、雅樂と稱し、詩歌文章を能くし、賀茂眞淵及び本居宣長大人とも相識にて、固より尋常の人に非ず、と傳へられる)のもとで過ごしたる竹内式部先生は、八年の時を經て再び歴史の一頁にその名を連ねることゝなる。明和事件の連累者と目せられ、島流しの刑を告せられ、その途次、三宅島の伊ケ谷村にて明和四年十一月廿日、濕病を患ひ逝かれたことは前記のとほりである。


 明和事件に就ては、これ以上詳しく書かない。書く必要を見出せない。
 小人が自己の立身榮達の爲めに、偉人の遠見なる計畫を挫かむとするのことは、今日に於ても決して珍しきことではないからだ。


 さらば明和事件を通じて野生の興味を注ぐ可きことがらは、寧ろ、山縣大貳先生とその思想に歸結せねばならない。
 よつて、大貳先生の主著『柳子新論』に就て、これを記す可きであると考へる。

贈正四位 柳莊 山縣大貳先生
●『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日『大日本明道會』發行)
『昌貞、字は子明、柳莊と號す。大貳は其通稱なり。享保十年(紀元二三八五)甲斐國巨摩郡篠田村に生る。天資頴敏にして豪邁、同國の人、加々美櫻塢に就きて學ぶ。櫻塢は三宅尚齋に學び、尚齋は山崎闇齋に學びたれば、昌貞の學風の本づく所自ら明なり。寶暦六年(紀元二四一六)江戸に來り、兵學教授の門戸を張る。藤井右門、竹内式部の徒常に往來す(※竹内式部先生の往來に就ては異説あり。野生は其の事實あらざりし見解を採るもの也)。其の兵法を講ずるや、江戸城を攻むるには南風に乘じて火を品川に放つべし等の語あり(※愚案。この發言者は大貳先生に非ず。右門公にあり)。遂に幕府の注目する所となり捕へられて殺さる。時に明和四年(紀元二四二七)にして、享年四十三なり。明治二十四年正四位を贈らる』
※米印の括弧のみ野生による。

●徳富蘇峰翁、『近世日本國民史 第廿二卷 寶暦明和篇』(大正十五年九月十五日「民友社」發行)に曰く、
『彼(※大貳先生のこと)の言論は、之を竹内式部に比すれば、頗る露骨であり、且つ過激であつた。竹内式部は、只だ、古に託して、以て今を語りたるに止まつた。然も其の要は、破邪ではなく、顯正であつた。即ち朝廷自から學を修め、徳を立てなば、天下自から之を集らんと云ふに止まつた。されど山縣大貳の議論は、寧ろ破邪に傾いてゐた。其の要は、現状攻撃であり、現状打破であつた
『併し大貳の平生に就て見るも、將た當時の事情から察するも、大貳が徳川氏討伐の擧兵を企てたと思ふ可き節は、殆ど一も見出されない。~中略~ されど彼の忌憚なき言論、及び彼の昂々然として、世に處する態度が、或は物議を釀すの種子たることは、彼自身に於ても、決して氣付かぬことはなかつたであらう。彼は此れが爲めに、一死を覺悟した乎。そは揣摩の限りではない。然も何時厄運の其身に降り來る乎は、固より覺悟の前であつたらう』と。

●史學會理事長 三上參次翁、『尊皇論發達史』(昭和十六年四月十七日『冨山房』發行)に曰く、
彼の勤皇説としては、彼は一は古書を讀み、一は山崎系統學派によりて鎌倉以來大義名分の紊れたるを概き、世間甚しきに至りては 皇室を輕んじ却つて武家を尊び本末を誤りたるものあり、是れ必ず匡救せざるべからずと憤りたり。柳子新論中に盛に彼の説を吐けり』と。
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 上記、先人も斯く申してゐることから、以降、力めて、『柳子新論』の十三篇を抄録してみたいと思ふ。さて、「腱鞘炎知らず」の出番と、オタクの本領發揮だ。
 誤記誤謬のあらば、乞ふ、御教示下さらむことを。douketusha@ever.ocn.ne.jp
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by sousiu | 2012-04-26 00:23 | 先人顯彰

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