柳子新論抄  「正名第一」 

 『柳子新論』の論評に就ては、野生の稚拙、蒙昧な説明を避け、他の書に之を委ねる可きであらう。

●本多辰次郎氏、『歴史講座 勤王論之發達』(大正五年八月十五日「日本學術普及會」發行)
『大貳の學識と意見とは、彼れが畢生の心血を濺ぎたる「柳子新論」に就て見ることが出來る、其の尊王・正名の大主張は今日猶凜として正氣あるを覺ゆ、「靖獻遺言」や「中興鑑言」や「保建大記」等の書を喜ぶ者は亦此の「柳子新論」を一讀すべきである、正名は其の首章で有て、大意は申すまでも無く、名分上の主權者たる朝廷の外に、實力上の主權者たる幕府の存立は正に僭僞である、國體に背反するものであるといふ決論を隱約の間に顯したものである』。

●『日本國粹全書 第四輯』(大正五年十一月廿八日『日本國粹全書刊行會』發行)
『(柳子新論は)山縣昌貞が、時人の我が國體の何物たるを知らずして、往々、名分大義を謬り、王室を忘れ、武門を尊び、冠履顛倒、輕重、當を失するものあるを慨し、名分大義を正し、王綱を恢弘せんことをはかり、幕府の粃政を難じ、經國の大事を論じたるものにして、「正名」以下、編目を設くること十三。所論、卓拔にして剴切、識見、高邁にして、遠く時流を抽く。この編、もと、徳川氏の盛時に編せられたりしかど、諱むところありて、久しく世に出でざりしといふ』。

●『勤王文庫 第壹編 教訓集』(大正八年十月五日『大日本明道會』發行)
『柳子新論十三篇は山縣昌貞の先人が、享保の初年、其の故宅を開墾したりし時、石凾中より發見して之を謄寫し置きたるものといふ(※下記に説明)。其の内容は、武士の跋扈を憤り、富家の專横を怒り、民産の平均すべきを説き、人才の進路を開くべきを論じ、時弊を改革するは、王政を復古して、大化改新の精神を徹底せしむるに外なきを斷じ、遂に幕府の顛覆に論及せるものにして、徳川の中世に於ける内國の弊習を憤慨したるものゝ著述たること疑ふべからず。蓋し昌貞自ら著す所にして、嫌疑を避けんが爲に故らに其蹤跡を晦ましたるものなるべし』

 『柳子新論』は、その内容を當時の幕府が看過默認す可からざる事情があつた。固より『柳子新論』は大貳先生の自著であるが、大貳先生は同書を古人の作に假託して、自跋の中で之をトボケて説明してゐる。(このやうに古人に假託した例は、當時に於て決して少くはない)
 因みに、本來の書名は『新論』であつたといふ。しかし後人が、水戸の會澤正志齋先生の『新論』と區別する爲め、大貳先生の號であつた柳莊から思ひ付いて、『柳子新論』と名付けたものである。文中の『柳子曰く~』とは、云ふまでもなく、大貳先生御自身のことである。



 『柳子新論』は、漢文だ。然も奧が深い。
 徳富蘇峰翁も、前掲書に於て、
『抑も此の柳子新論は、文章から云へば、徂徠學派の修辭の餘を承け來つたもので、其の手際はとても、滔々たる雜學者の及ぶ所ではない。何人も之を一讀する者は、山縣大貳の漢文修辭の上に、造詣の淺くなかつたのに驚くであらう。 ~中略~ それよりも、此の論文にて見る可きは、山縣大貳其人の意見である。否な山縣大貳其人の意見と云ふよりも、其人によりて代表せらるゝ、當時の或部分に行はれた意見である。即ち、時代精神の萌芽である
 と感嘆を隱さない。



 野生の癖で、譯文や解説書を一書讀んで滿足する能はず、解説書に就ても複數書を拜讀したのであるが、『日本學叢書 第六卷』(監修解説/平泉澄先生、校訂譯注/鳥巣通明先生、昭和十四年七月十五日「雄山閣」發行)が理解するのに最も適切であると信じ、之を頼り、若干修正しつゝ、筆ならぬキーボードを打ち進めてみたい。
※原文は漢文。振り假名は野生による。




山縣大貳先生、『柳子新論』(寶暦九年三月脱稿)「正名第一」に曰く、
柳子曰く、物には形無くして、名有るものが有り。形有りて名無きものは未だ之れ有らざるなり。名の以て已むべからざるや、聖人之に由りて以て教へを其の中に寓せり ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
『正名第一。皇國には古來、刑、刑律、刑法等の觀念は存在したが、維新の當初に至るまで、未だ「民法」なる語は勿論、權利、義務の如き用語すら無かつたので、明治時代に於ける法典編纂に際し、非常な困難を體驗せねばならなかつた。この一例によつても東洋と西洋の政治思想の相違が觀察される。事實、西洋に於ては、國政が道徳そのものとはせられず、却て力を依據とする法治とせられ、力と正義とが對峙し、徳と法が別原理の上に立つと考へられたのに對し、東洋では、道徳を治國平天下の根本としたのであるこゝに、政治の要諦は「正名」にありとの古人の主張が生まれる。山縣大貳先生が、燃ゆるが如き改革の熱情をいだきつゝものした本書に於いて、直ちに、忙はしく制度政策を論ずることなく、この正統的な東洋政治思想をうけて、「第一」に「正名」に筆を起されたのは、その着眼の高く、立意の正しきを示すもので、後進の當に心すべき點であらう』、




●大貳先生の曰く、仝、
我が東方の國と爲すや、神皇基を肇め、緝熙穆々。力めて利用厚生の道を作(おこ)したまふ。明々たる其の徳、四表に光被する者、一千有餘年。衣冠の制を立て、禮樂の教を設く。 ~中略~ 保平(保元、平治)の後に至りて、朝政漸く衰へふ。壽治(壽永、文治)の亂、遂に東夷に移り、萬機の事、一切武斷、陪臣權を專らにして、廢立其の私に出づ。此の時に當つてや、先王の禮樂、蔑焉として地を掃ふ。室町氏(足利氏のこと)繼いで興り、武威益々盛んにして、名は將相と稱するも、實は南面の位を僭す。然りと雖も、先王の明徳、深く民心に浹合したれば、則ち、強暴の臣も尚ほ忌憚無き能はず。是を以て神器移らず、皇統、綫(わづ)かに存す。數世の後に逮(およ)び、豪傑交々起りて、各々一方に據り、龍驤、虎奔、相奪ひ相害し、窮り已むこと有るはなし。姦賊事を謀り、戎蠻是れを簒(うば)ひ(※近世日本國民史、勤王文庫などでも是れを「慕ひ」と誤記する書多し。原文は「簒」)、首に巾帽無く、衣に領袖なく、驕傲徳を稱し、暴虐功に伐(ほこ)れり。此の時に當たりてや、一、二の或は其の民を憂ふる者も、亦た惟だ戰國の弊を承け、苟且の政、荏苒日を送れり。何ぞ名教の由る所を知らんや。即ち民の蚩々たる者も、將た焉んぞ其の土に安んぜんや。又た將た焉んぞ其の身を安んぜんや』、

 ○内容の解説に曰く、
『支那の思想家に例をとり、轉じて日本に於て、それが如何なつてゐるかを問題となし、先づ歴史的檢討を企てしもの。蓋し、革新に際しては、革新原理を純正明確ならしむると共に、當代社會の適確にして具體的な認識を不可缺とするが、その原理を明徴ならしむる爲めには、歴史的反省が必須であり、又た當該社會の正しき把握は、單に其の時代に於ける政治經濟思想等々の現實の構造を明らかにするのみで得られるものではなく、改革す可き事態發生の歴史的因由が究明されねばならぬからであらう』、

 ○『神皇基を肇め~』の意。
 天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふわが國體の事實をさす。日本書紀に、天孫降臨を 神武御東征前百七十九萬二千四百七十餘歳と記してあるのは、われ等の祖先が、日本のはじめを 神武天皇の御即位におかずして、更に無限の過去に溯らしめて居たことを示すものである。安政二年四月、大國隆正大人がその著「本學擧要」の中に、皇紀を中興紀元と稱したのも、かゝる考へにもとづくものであらう

 ○『遂に東夷に移り、~』の意。
 東夷は、征夷大將軍をさす。徳川家康が最も尊敬した幕府政治の創始者・源頼朝を東夷と稱することは、當代の將軍、徳川氏をも亦た東夷と貶することは、當時に於て、死を決した者によつてはじめて發し得る言葉である




●大貳先生の曰く、仝、
今且く其の大なるものを擧ぐれば、官制を特に甚しと爲す。夫れ文は以て常を守り、武は以て變に處するは古今の通途にして、天下の達道なり。今の如きは、官に文武の別なければ、則ち變に處する者を以て常を守る、固より其の所に非ざるなり。且つ夫れ、諸侯は國君なり。各々方土を受け、世々其の爵を襲(つ)ぎ、社稷を有(たも)ち、民人を愛し、尚ほ且つ將校を以て自ら處(を)り、專ら無文の令を出す。乃ち計吏宰官の類の如き、終身武事に與らざる者に至りても、亦た皆、兵士を以て自ら任じ、一に苛刻の政を致す。其の治道に害あるもの、一なり。~中略~ 尾、大にして掉はざるに非ずんば、即ち冠履倒置、唯だ權之を凌ぎ、唯だ威之に乘ず。是れ其の尊卑の序を失ふもの、三なり。且つや、古の人は相呼ぶのに必ず名字を以てし、或は兄弟の行を稱せり。輓近以來、卿大夫は一に其の官を稱して其の名を問はず。乃ち士庶民の職無き者に至りても亦た皆、妄りに内外の官號を犯し、兵衞、衞門、助、丞の類、農、工、商賈、奚奴、輿隸の卑きよりして、戯子、雜戸、丐兒、非人の賤しきに及ぶまで、毎々必ず是に於てす。夫れ律の法有るや、官を私し、官を犯す者は、皆罪して赦すことなし。今若し、法を以て之を糾さば、天下に幾(ほとんど)遺る民無からん。是れ其の淆亂、之を如何ともすべからざるもの、四なり。凡そ此の如きの類、俗を成し風を成せるは、固より一朝一夕の故に非ざるなり。殿、樣、御、候、仕、致、之、等、言語は別に一家を成し、文字は別に一義を生ず。乃ち、■(手偏+晉=しん)紳諸士の間、日用意を通ずるも、亦た未だ其の何の義たるかを知らず、事事皆、爾(しかり)。物物皆な爾。豈に笑ふべく、嘆くべきの甚しきに非ずや。 ~云々』、

 ○内容の解説に曰く、
 『歴史的考察より轉じて、現實社會の解剖に移り、名分の亂が、政治及び社會の混亂を惹起してゐる顯著にして具體的な例を論じてゐる』、


 愚案。名分を糾さんとする大貳先生の痛憤は、現代の吾人の痛憤であることを深く認識せねばならぬ。
 ことにマスコミの名分の亂脈は甚しきものがある。野生の如き凡夫に寄せられる書翰にも「河原樣」と記されてあるが、畏れ多くも 天皇、皇族に對して、河原の如きと同じく「樣」を愛用し已まぬこゝ百年間の歴史には疑問を抱かざるを得ない。非道い例ともなると、呼び捨ては最早論外とするも、「●●子さん」を以て憚らぬ。これをたかが名稱と侮る勿れ。中井洽の如き癡漢が政界に出現するも、畢竟、この名分を大きく誤つてゐることに、抑も起因の一つを看るのである。
 これより前、羅山があらうことか徳川に「大君」の稱を獎め、白石が「國王」と獎めたことに、憤慨した一部の識者があつたことは、既記したるとほりだ。斯くなる名分を辨へぬ白癡の暴擧をいかでか赦し置く可し。雨森公の『僕一たび之を聞き、且つ驚き、且つ痛む』と憤慨したるの言葉は、時を隔てゝ吾人が心境と相等しくあらねばならぬ。
 されど吾人は、今日も知らず識らず、羅山や白石を笑ふ能はざる人になつてゐまいか、兔角、自己點檢す可きを閑却してはならない。
◎北畠親房卿『神皇正統記』卷六に曰く、
言語は君子の樞機なりと云へり。白地(あからさま)にも君を蔑ろにし、人に驕ることはあるべからぬことにこそ、さきに記し侍りし如く、堅き氷は霜を踏むより至るならひなれば、亂臣賊子といふ者は、その始め心言葉を愼まざるより出で來るなり』と。

 大貳、親房兩大人の言を列記するまでもなく、皇國の興起を志した先人は、變革者として觀念に於ける其の基礎がきちんと確立されてゐたことを識るものである。
 餘談となるが、明治維新は、武家が政權を返上したあの時點に於て、一端の達成をみた。その直後に於て、頓挫に頓挫を重ね、遂に迷妄し現代に至る。從つて、現代からみるに、最も近しき 皇國大變革の成功例は、明治維新であつて、その後に未遂や計畫こそ陸續出來したるも、凡ては不成功に終はつてゐる。よつて單なる「戰前囘歸」では、皇國の中興は期し難くあること云ふまでもない。吾人が、皇國の中興を志すとき、そは、取り敢へず成功を收めた明治維新の先達の姿勢と道程に手本たるべきものがあると考ふるが至當と思ふ。而、さきの維新前の識者から、畏れ多くも、天皇に「陛下」とお呼び奉らずして「樣」などとお呼びする例など、殆どみない。大正、昭和の一桁に如何に「天皇機關説者」や「日蓮主義者」が跋扈してゐたか、思ひやらるゝではないか。




●大貳先生の曰く、仝、
政(まつりごと)の未だ地に墜ちざる、蓋し二千有餘年、久しと謂ひつ可し。是れを以て其の化の海内に被及する、廣しと謂ひつ可し。其の徳の民心に浹合する、深しと謂ひつ可し。其の衰ふるに及びてや、白龍、水を失ひ、制を小魚に受け、千里を跋渉し、露に暴(さら)し、雨を冒す、亦た難しと謂ひつ可し。此の時に當たりてや、一、二の忠臣、或は能く其の位を復したてまつるも、亦た且つ富める小國の君に若(し)かざる也。然りと雖も、此の如くにして、尚ほ能く其の宗廟を保ち、百世廢せず、今に到るまで四百有餘年、權は下に移ると雖も、道は其れ斯(こゝ)に在らざらん乎(や)。先王の大經大法、自ら律令の見る可き有り、若し能く民を愛するの心有らば、名、其れ正す可からざらん乎。禮樂其れ興す可からざらん乎。刑罰其れ措く可からざらん乎。哀しい哉、天下其の人有ること無き也。既に盡(ことごと)く其の古に復する能はず。亦た盡く其の舊を變ずる能はず。其の盡(つ)くさざる所有るは何ぞや。豈に其の物を尚ぶを知りて名を尚ぶを知らず。己の爲めにするを知りて天下の爲めにするを知らざるが爲めか。抑も亦た、學政行はれずして、術智及ばざる所有るなり』と。(「正名第一」完)

 ○内容の解説に曰く、
『最後に建武中興を囘顧し、忠臣が親を滅しての盡忠奉公によつて、よく國家を護持した爲め、朝廷は衰へたりと雖も、今なほ名致の根源であらせられ、又た律令によつて、古代の正しき制度もこれを見ることが出來るとなし、もし志さへあれば、王政復古の必ずしも不可能ならずを述べ、然も實際問題に移さんとすれば、天下にその人なきを歎じ、無限の感慨を寓しつゝ、正名第一の章を結んでゐる』と。

 ○『白龍、水を失ひ、制を小魚に受け、千里を跋渉し、露に暴(さら)し、雨を冒す、亦た難しと謂ひつ可し。~』の意。
 龍が、時に利あらずして水を失ふや、くだらぬ魚の爲めに制せられ、その生得の飛躍が困難であるやうに、幾千年連綿たる 皇室も、一度衰へたまふや、くだらぬ幕府の爲めに抑壓せられるとの意乎。

 愚案。この文章に於ては、大貳先生、云はんと欲するも果して云ひ得ず。
 しかし何度も當日乘で繰り返すが、當時の状況下に於て、かうした文言は、正に命と引き換への覺悟を要することであつた爲め、その底意の看取を讀者に託した謂ひ囘しなのかもしれない。
 而して、その底意は、十三篇の第一項で既に、幕府に對する不平に留まらず、批判に留まらず、積極的に否定してゐることからも、これを看取するに決して六ケ敷くはない。




 ところで、大貳先生は二度、結婚をしてゐる。前妻は、甲州龍王町齋藤左膳氏の娘で、次郎兵衞なる一子を擧げ、寶暦八年八月晦日、病死した。後妻は、上州那波郡馬見塚村の深町半彌の妹、多加刀自であつた。多加刀自との間では、寶暦十三年二月十五日、第二子の長藏氏を擧げた。御子息である長藏はやがて醫師となり、のちに、大正天皇が皇太子にまします時代の侍醫となつた今村長順翁その人である。多加刀自は、温良貞淑の婦人であつたらしい。男兒にも惠まれ、家内は頗る圓滿、家庭的幸福の滿潮期であつた。

 何を思はれたか、大貳先生は翌年の明和元年、突然、多加刀自と二歳の長藏氏を生家に歸らしめた。
 大貳先生が後難を慮つた爲めであるか、そは推測の域を出でぬ。兔も角、大貳先生の就縛の際には、宅に大貳先生の身の切れと申す可き人は、一人もゐなかつた。
 前記したが、大貳先生に擧兵の具體的計畫が存したか、果して野生は詳しく識らない。『慶安の變』に於ける由比正雪公の如き罪名もて幕吏が大貳先生を縛し、刑に處したのであれば今日に分明であるが、その宣告文を一讀すれば、『不敬の至、不屆至極に付、死罪を申付る』と結ばれてゐるに過ぎず、罪状も内容も全文を通じて甚だ曖昧である。要するに、幕府に向かつて大貳先生は、暗鬪はされたが明爭したり或は明爭を企圖した記録が無いのである。如何に幕府の監察が取り調べや聞き取りを行なつても、無きものが出で來よう筈もない。固より、この事件も寶暦事件同樣、心なき陰險者による密告から始まつたものなのだ。

 獄中に於て大貳先生は、處刑される明和四年八月廿二日の一週間前、十五夜に下の一首を詠じてゐる。

     くもるとも なにか恨みん 月今宵
             晴を待つ可き 身にしあらねば



 大貳先生が、既に一死を御覺悟なされてゐたこと想像するに難くない。大貳先生は、果して、いつの頃から命懸けの人生となつたのであらう。
 少なくとも「幕府」を「東夷」と看做した時には、既に斯くなる心得が定つてゐたものと察せねばなるまい。
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by sousiu | 2012-04-27 22:23 | 良書紹介

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