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「近世日本國民史」より學ぶこと 

 『柳子新論』は十三篇に亙る。
 一氣に御紹介したいのであるが、御來車の方々も、野生も、少し疲れが溜まるころだと思ふので、今日は道艸することにした。


 何やら、日乘に記すやうな内容ではないと苦言されさうであるが(奇廼舍主人、落葉松屋主人は苦言せなからうけれ共・・・)、諸賢が野生の如き凡夫の毎日を識つても仕方あるまい。固より野生、人に向うて披露す可き丈の一日も、過ごしてゐない。單なるオタクなのだから。『楚國先賢傳』に「閉戸先生」と呼ばれた孫敬といふ人物が登場するが、野生の場合は、つまり「閉戸處士」だ。

 題したごとく、此處は一民草のひとりごとを漏らす頁に過ぎぬものであるから、それがたとひ大半の人に讀み流されてしまふとも、野生は殊更ら不滿に思ふ可き理由も資格も無いのだ。

 さて。野生が先人の玉稿を抄録するには理由と動機がある。今日は、その事をひとりごとしたい。

 蘇峰 徳富猪一郎翁は、「近世日本國民史」に對する自己の抱負として下記の如く、申してゐる。
 長文となるが、蘇峰翁の素懷とみて間違ひあるまいと思ふので記載することにした。

●徳富猪一郎翁『近世日本國民史 廿三卷 田沼時代』(昭和二年一月十日「民友社」發行)に曰く、
『翻つて考ふるに、予が大正七年五月、近世日本國民史の筆を著け始めて以來、既に足掛け九年を經過した。此の間には我が身邊にも、國家の上にも、世界の上にも、非常の變化が來つた。予一個としては、大正八年二月には、九死一生の大患に罹つた。然も頼(さいは)ひに予は一切を此の事業に獻げ、且つ獻げつゝある。予は當初十年計畫にて、完成せんと期した。然るに今や漸く第一期の終局に近づきつゝありて、第二期 孝明天皇、第三期即ち編著の大眼目たる、明治天皇御宇史は、尚ほ前途遼遠である。歳月は全速力もて奔るも、仕事は牛歩遲々。

 併しながら斯る大仕掛の仕事は、徐ろに且つ確かに、其の行程を辿るを以て、寧ろ安全と信ずる。されば予は決して一日に百里を行かず、百日に百里を行くの方針を取つた。即ち功を累積に遂げ、勝を全局に制するの方針を取つた。此の如くして今日に至る迄、既刊二十三卷、未完五卷、通計二十八卷を稿了した。而して今や第二十九卷を、逐日著作しつゝある。

 惟ふに今後幾許の歳時を要して、完結す可き乎。又た果して予の一生中、完結の目的を達し得可き乎。それは只だ天に問ふの他はあるまい。併しながら予は人力の及ぶ限りを、此事に盡さんとしてゐる。

 されば苟も事の此の業務と兩立せず、若しくは妨害となるものは、予は悉く之を片附けてゐる。此れが爲めには、世間の義理合、一般の社交、若しくは個人的享樂なども、殆んど全く頓著しないこととしてゐる。さりとて決して全速力は愚か、快速力をも出さない。舊に依りて牛歩遲々。若し遲々たるが爲めに、完成する能はずして止まば、是亦た致し方なしとして、自から諦むるの他はあるまい。~中略~

 予の理想を云はしむれば、司馬温公が、資治通鑑に於ける、水戸義公が、大日本史に於ける如く、當代最も超群の史才を集め、その衆力を以て、茲に不朽の大著作を爲したいのだ。されど予の微力では、到底斯ることは思ひも寄らない。

 然らば寧ろ一人一個にて、啄木鳥が木を穿つ如く、兀々(こつゝゝ)として日又日に、月又月に、歳又歳に、その精力を集中して、此の事業に傾倒するの他はあるまい。予には決して完全無缺の歴史を作らんとする程の抱負はない。されど少くとも近世日本國民史に就て、何物かを貢獻したいと思ふ。而してそれ丈の事は、予一人の微力でも、苟も勤めて怠らずんば、必らず成就し得可しと信ずる。 ~中略~

 世間には予が、くだゝゞしく前人の著作、若しくは文書等を引用するを病む人がある。されど予は前人の功を竊むを欲せず、又た斯る資料はやがて湮滅するの虞あれば、せめて予の歴史中に保存せんとの微意に外ならない。若し斯る資料を咀嚼して、改めて予の文字とせん乎。此れは予に取りても手輕であり、讀者に取りても骨折が少ないであらう。されど歴史は小説ではない。歴史は只だ娯樂の道具ではない。古人の著作や、古文書を、その必要の點だけ、その儘本書に登載するは、只だそれ丈の事としても、大なる意義がある。繰り返して云ふ、予は決して勞を厭ふ爲めに然かするではない。予に取りては自から文字を綴ることが、他の文字を抄録するよりも、如何ばかり氣樂でもあり、且つ面倒も少ないのだ。然も有用なる資料の其儘なる引用は、予の修史上の主張である。

 單に文章として云へば、推敲の餘地は頗る多きを知る。されど予は只だ達意を主として、修辭を客としてゐる。他日若し全史を完了するを得ば、更らに其の總説とも云ふ可き一書を綴らんことを期す。その時には予も出來得る限り、修辭にも力を用ひんことを期してゐる。

   大正十五年十二月十六日午前十時 大森山王草堂に於て
                蘇峰六十四叟    』と。



 若い頃、野生はかうした繼續力を有し得なかつたし、又た、欲し得なかつたが、馬齡を重ねるに從つて、蘇峰翁のこのやうな、志に對する姿勢に共鳴しつゝある。共鳴といふ表現が野生の分を越えたものであるならば、敬意である。
 野生は、翁の道に對して進み行くその嚴格な態度ばかりでなく、歴史の尊さと、併せて文章報告の手法も學んでゐる。野生の、抄録を掲げる微意は、當日乘でもこれまで何度か記したが、やはり如上、翁の主張に影響されたこと少なくない。
 とは云へ、抄録の達人、備中處士樣には、未だ到底、足下にも及ばないのが悲しむ可き現状だ。噫。


 ところで野生と「近世日本國民史」との出會ひには少々ばかりの理由がある。
 蘇峰翁には、長年、祕書を務めてこられた並木仙太郎先生といふ人があつた。
 ふとしたことから、野生はこの並木家方々と邂逅を得、爾來十五年、家族同志の親密な御交誼を賜はつてゐる。(目下、野生は所拂ひの身なので、ひとりぼつちであるが)
 因みに、陣營の人では平澤次郎翁や、虚け者先輩、MOKKOSU選手などと並木家へ伺つたこともある。
 仙太郎先生御愛孫からは、今日に至るまで蘇峰先生に關する書籍は固より、貴重な品々を賜はつた。
 「近世日本國民史」も、並木家御主人より獎められ、今日まで三卷ほどを缺いて、ほゞ蒐集し、ほゞ拜讀した。
 人生に於て、ちよつとした出會ひの齎す影響の大なることに、ただゝゞ、驚くばかりである。



 近世日本國民史に話しを戻さねばならない。
 翁は、昭和廿七年四月廿日、「近世日本國民史」第百卷「明治時代」を以て、遂に脱稿することが出來た。(因みに、翁の祕書、藤谷みさを女史による口述筆記)
 足掛け卅五年。嘸ぞや無上の喜びであつたらう。その時の樣子を御愛孫の徳富敬太郎氏が語つてゐる。
 『その日私は祖父を訪れましたが、奧から祖父がゆつたりとあらはれ「終はつたよ」と呵々大笑、それに從ふ藤谷さんはぼうだと涙をながしてゐました』(『國民史會報 第廿九號』昭和卅七年七月十日「近世日本國民史刊行會」發行)と。


 以下は平泉澄先生の、近世日本國民史百卷完成記念に於ける御講演だ。
 前半は、平泉先生と蘇峰翁の御親交に就て。後半は近世日本國民史に就てだ。
 この時既に、蘇峰翁はこの世を後にされてゐる。

●平泉澄先生、昭和卅七年六月廿六日、「近世日本國民史百卷完成報告會」(於帝國ホテル)に於ける講演會にて、曰く、
『徳富先生の「國民史」が、いよいよ百卷完成いたしました。
 私は、終戰後山へ入つてをりまして、徳富先生にお會ひする機會もほとんどなくなりました後に、先生よりたびたびお手紙をいただき、ご懇切なる激勵の言葉をちやうだいいたしました。やがて段々と追放が解除されてゆきました時分のことでありますが、ある日方々の新聞社から訪ねて參りました。「あなたは今度追放解除になるのだから、感想を聞きたい」私は答へました。「私は、決して解除になりませんから、感想は述べません」するとある朝、ゐろりで火を焚いてをりましたところが、長男がきまして、「お父さん、今ラジオでお父さんのことを言ひましたよ」「何といつた」「徳富蘇峰、平泉澄は追放解除せざることに決定した、といふ發表がありました」「さうだらう」といつて笑つてをりましたが、その直後に、徳富先生から杖を二本ちやうだいいたしました。「しつかりしろ」といふ意味だと思ひます。
 常にさういふふうにして勵まして下さつた徳富先生より、ある日いただきましたお手紙は、「いよいよ、國民史百卷、昨日をもつて書き終はつた。これがいつ發行されるか、見込みはたたぬ。おそらく、自分の生きてゐる間に世に出ることはあるまい。しかし、もし自分の死後において、これが日の目を見るようになるならば、その期にはぜひ頼む」といふお手紙をちやうだいしたのでありました』

『最も困難なる明治初年のところを、あれだけ明確に、また實に躍動するがごとくに書かれましたことを、感謝してやまぬ次第であります。さうしてこれは、私どもは何らかの天意あるものではないか、とまで思ふのであります。
 なぜかといひますと、今日の國情において、信長を思ひ、秀吉を思ひ、家康を思ひ、さらに近く西郷を思ひ、木戸を思ひ、大久保を思ふことは、國民にとりまして非常に力になるものと思ひます。その三傑の終はりをもつて筆を終はりましたことは、殘念でありますけれども、しかしかく餘韻を殘され、言ふべからざる精神の冥々のうちにほとばしるものあるを覺えざるを得ないのであります。さうしてこれら前後三傑を見て非常に不思議に思ひますことは、その前におきましては秀吉、これが朝鮮に躓くのであります。豐臣秀吉は偉大なる英雄でありますが、この人は天正十八年までの秀吉をもつて偉大なりとする。それ以後の秀吉は、すでにその志、くづれてをるのであります。さうして朝鮮に禍ひされまして、この朝鮮征伐が豐臣の命取りとなるのであります。同樣に、後におきましては西郷、あの英傑が朝鮮に禍ひされまして、そのために遂に身を滅ぼすのであります。まことに運命の不可思議なるに、驚きのほかはない次第であります
 この間、かやうにみまして、私はこの歴史の書物(※近世日本國民史のこと)が、今日の時世において、かくのごとき形をもつて(※同書は「織豐時代」を首として「維新三傑」まで描かれてゐる)出たといふことは、非常な意味を持つものと感じまして、これを實に不思議に感ずるものであります。この偉大なる書物、およそ世の中に出てをります歴史の書物にして、これほど驚くべき書物はないと思ひますが、この書物の世に出ます上に、その下働きのお手傳ひをさせていただきましたことを、長谷川社長(※「時事通信社」代表取締役、長谷川才次氏)に對して厚くお禮を申し上げます』と。

by sousiu | 2012-05-05 01:05

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