2012年 05月 06日
柳子新論抄 「編民第七」
三日には、兄事する、玄月書屋、有安弘吉主人より、はからずも『靖国神社の真実』第二刷が屆いた。ありがたし。
◆◆中澤伸弘博士『みちのさきはひ』↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1551
◆◆『靖国神社の真実』増刷出來。↓↓↓
http://9112.teacup.com/bicchu/bbs/1553
昨日は、新宿、阿形充規翁の事務所に伺ひ、翁より御垂示を乞ふ。氣付けば、深夜の一時を廻つてゐる。
翁はおん年七十三。藤澤の片田舍に住む、野生の如き取るに足らぬ若輩に、何とも申し譯ないことである。ありがたし。
さて。野生は大貳先生の續きを記さねばならない。
愈々、後半だ。
●山縣大貳先生、『柳子新論』「編民第七」に曰く、
『柳子曰く、古は民を治むるの法に、必ず編伍あり。編伍に法無ければ、則はち民、土に安ぜず。民、土に安ぜざれば、則はち亡命多し。國に亡命多ければ、則はち盜賊並び起こる。治民の害、盜賊より大なるは莫し。
近世、衰亂の後を承け、編伍法を失なひ(※下記參照、一)、戸籍明らかならず、十室の邑(※家が十戸の邑、所謂る小さい村のこと)、尚ほ相識らざる者有り。況んや通邑大都は、無頼の民(※下記參照、二)の亡命して家を破る者、歳に千を以て數ふ。然れども此を去りて彼に居れば則はち知る可からざるなり。故に潛匿して都下に在る者には、或は終身追捕を免れ、還りて安逸の人と爲り、僥倖にして業を起こし、能く千金を致す者も、亦た多からずとせず。
而して、一旦、其の籍を編列せば、則はち郷豪土著の民と、終に相別つ無し。若し乃はち窮民の生を爲す能はざる者は(※下記參照、三)、奔走して道路に乞食し、溝瀆(三水+賣=とく、「涜」也)に轉死するに至りても、曾て隣里の憐れむところと爲らず。
或は薙髪(※髮を剃ること)して僧尼と爲り、四方に糊口し、或は竊盜して人を傷つけ、刑を它邦に受く。患難をも救はず、疾苦をも問はず、貴賤と無く、親疎と無く、唯だ其の冷煖をのみ之れ察すれば、則はち名は閭井(※まち、むらざと)を同じうするも、實は啻に仇視するのみならず、囂々乎として里巷の間に豕交し(※豕の如くに交はる、つまり獸と異らざるの喩へ)、嗷々乎として閭閻(※里中の門)の中に狗爭するは、豈に亦た悲しからずや』、
(※改行は、野生による。下記も然り)
○内容の解説に曰く、
『編伍の法あるも、それが完備してゐないために生ずる弊害に就て述べたもの』、
※一。近世、衰亂の後を承け、編伍法を失なひ(※原文「近世承衰亂之後、編伍失法)、云々。
五保の制の變形として、江戸時代には「五人組」の制があつた。浪人に對する取り締まりと、耶蘇教禁止勵行の必要より、寛永以後は、特に、五人組に關する法令が多く發布されたが、寛文四年に至り、所謂る「五人組帳」が作られ、人民より法令遵守の手形をとつた。五人組は、農工商の三身分にのみ施したもので、公家、武家、其の他、穢多非人の類ひはこれに加はらず、都市と地方によつて、當然の如く、その規模を異にした。
※二。無頼の民(※原文「無頼之民」)
頼りを託す可き無き者。こゝでは、戸籍不明により發生すると説明してゐる。
※三。若し乃はち窮民の生を爲す能はざる者は(※原文「若乃窮民不能爲生者」)云々。
相互扶助の行はれざる事實を述べたもの。
戰國割據時代は兔も角、好むと好まざるとは別として、一應、全國が統一された江戸時代では、罪人に對する追放刑では、社會保全の目的を達することが出來ず、却つて無宿人を増加せしめた。これが戸籍不明者だ。
彼れらは、都會に行けば博奕、強盜などを働き、農村に行けば田畑農家を襲うた。
●大貳先生の曰く、仝、
『然りと雖も、僻邑寒郷の俗の如きは、猶ほ或は古質の風を輕蔑し、士人を威蔑し、之を觀ること嬰兒の如く、以て其の貨財を竊み、以て其の妻孥を掠め、詿誤して以て智と稱し、劫略して以て勇と稱し、徒を爲し、黨を爲し、以て自ら名號を樹つるに至る。官の制する能はざる所、法の罰する能はざる所なり。還りて之に力を假して以て佗の暴逆を制すれば、則はち彼れは自ら其の官の爲めにするを誇りて、愈々益々天下の民を侵侮す。奚ぞ其の賊に兵を借し、盜に糧を齎すの此に非ざるを如らんや。嘆す可きの甚しきなり。~云々』、
編伍失法の弊害は、田舍のみならず、寧ろ都會に於て殊に甚しくあることを述べたもの。
徳川幕府も、こと中期以降、政治の弛緩が、國内の隨所に滲透し、治安も亂れてゐた。
勤勞者や正直者は、絶えずその犧牲を被り、農民は稼業を放擲し、徒黨を組み、惡事に手を染める者決して少なしとせなかつた。上記「亡命」とは、日本を脱することではない。藩を脱するものだ。藩籍を捨てるものだ。彼れらも亦た、無宿人となるか不逞の一團とならざるを得なかつた。
それでも、稼業に一意專念する者は、幕府の政治によつて恰も奴隸の如く扱はれ、必然として一揆や騷動が多發した。
當時は今日の如く、各所に交番があるでない。大貳先生は、かうした現状を憂ひて、地域に於ける相互扶助の關係囘復を主張したものだ。
●大貳先生の曰く、仝、
『且つや、近世の處刑たる、其の罪の死に至らざる者は、或は黥(いれずみのこと。黥刑)し、或は髠(上「髟」+下「几」=こん、髮を剃り落とすこと)し、或は苔杖を加へ(※杖で叩くこと。輕敲は五十囘。重敲は百囘、所謂る百叩)て、而る後に其の財を籍沒し、其の身を放逐すれば、則はち星散して歸する所無き者、勝げて計らふ可からず。而して其の暴惡は固より輕刑の能く懲らす所に非ざれば、則はち或は自ら其の過ちを改めて以て其の業に就く能はず。是れを以て親戚に寄らむと欲すれば、則はち擯して之を斥け、僚友に託せんと欲すれば、則はち禁して之を錮し、之をして衣食の計無く、身を容るゝの地無からしむ。則はち窮因焉(これ)より甚しきは莫し。小人窮すれば斯(こゝ)に濫す。況んや其の性の固有する所、死灰寧(いづく)んぞ復た燃えざらむや。遂に郷黨閭里の間に群聚して、竊盜攘奪、以て人の産を妨げ、剪綹(糸偏+咎=りう)誆(言偏+匡=きやう)騙(※下記參照)、以て人の生を害す。此の如き者も亦た少しと爲さず』、
刑法の誤ち、罪人の更生策の失敗を説いてゐる。前科者は一生、無頼の徒として送らねばならず、更正の機會を得なかつた。よつて、正業では糊口を凌げず、黨派を組み、惡事を繰り返してしまふ。犧牲となる可き人は年々増加し、またもや正直者が損をし、その損をした正直者が惡事に手を染め、或は不平黨を組織し、正に惡循環の極はみであつた。
これでは年々、社會の治安が紊亂することがあつても、良好へと向かふ可く理由あるはない。
※剪綹誆騙
「剪」は斬る、斷つの意。「綹」は緯(よこいと)の十縷の意。「誆」は瞞く、謬るの意。「騙」は謀るの意。
●大貳先生の曰く、仝、
『是れ皆、蒼生を蟊(上「矛」+下左右「虫」=ほう。苗の根を食ふ蟲のこと)賊(※賊は苗の節を食ふ蟲)し、禍ひ國家に及ぶ者にして、見て以て常態と爲す可からざるなり。宜しく編伍の制を復し、戸籍の法を明らかにし、毛を戴き齒を含むの屬をして、上には管する所あり。下には由る所ありて、網擧がり目張り、掛漏の謗を容れざらしむ可し。而る後に、土着の俗成り、刑措の化、行はれむ。其の治國の道に於ける、庶幾(こひねがは)くは以て一變を爲す可きなり』(「編民第七」完)と。
編伍を整へ、戸籍の法を完備し、匡救せしめよ、と述べたるものだ。
江戸時代に於ける刑罰、御仕置き、成敗などの資料があるが、これは亦た他日に讓りたい。
ともかく、この時代では、罪を犯した者が、轉向、改心を決意すれども、世に容れられる可くした制度も、機能も、風潮も無かつたので、再び犯意を抱く者が大半であつた。
大貳先生は、是れを地域が密着し、相互關係を強めて、改心したる者への助長や、轉じて無頼の徒からの防衞を促した。
編伍、五人組に對する長所短所は兔も角、大貳先生の主張は單に幕府の役人や政策の批判のみとせず、之に派生する諸問題を、民間の内にまで實に冷靜に觀察し、その憂ひを唱へてゐる。得てして、思想家とは、かういふものなのかも知れない。
而、次章「勸士第八」「安民第九」と續いてゆくのであるが、そこでもやはり社會の秩序には人心の安寧に重きを置き、國家の經營には農事に重きを置く。後の章「守業第十」では、はからずも、凡そ八十年後に起こらむ「大鹽平八郎の擧」を豫言するかの如き大貳先生の見識をみることが出來る。
テレビもインターネツトも無い、情報が極めて乏しき時代に於て、その識見にただゝゞ驚かされる秤りである。
さて、法で治めるを過信し、刑を加へて一件落着すると考へ疑はざるは、近年も然りではあるまいか。
確かに、應急措置の功はあらうけれども、そは所詮、應急措置に過ぎぬ。
◎今泉定助先生『講演通信』第四百十四號(昭和十四年一月廿五日「日本講演通信社」發行)「日本は所謂法治國ではない」項に曰く、
『西洋各國は法律を中心としてゐる、それであるから法治國だ、と斯う言ふ。それで日本を法治國だと思つて代々の司法大臣などが自分の部下を集めて、法治國の精神を強調しなければならぬ、などと數代言はれて居る。それは大間違ひである。日本は法治國ぢやない、開闢以來 天皇中心國家である。決して法治國ぢやありませぬ。
明治天皇も法律を色々御心配になつて向上せしめられたことは事實でありますけれども、決して日本は、法治國にはなつて居らぬ。法治國とは、法律を中心とした國家、日本は 天皇を中心として開闢以來出來た國である。斷じて法治國ぢやない。さういふ風に外の國では中心を持たぬものでありますから、力を中心としたり、宗教を中心としたり、法律を中心としたり、道徳を中心としたりして國を治めて居る。中心がなければこれは決して何ものでも治まるものではありませぬから、何か中心を求めなければならぬ。所が、日本の國家は開闢以來 天皇が中心で出來てゐる。~中略~
イギリスでは法律が中心であり、絶對でありますから憲法の上には皇帝と雖も出ることが出來ない、憲法で決めたこと以外に行ふことは出來ない。憲法絶對、ところが日本の方はさうではない、 天皇絶對であつて、憲法絶對ではない。それであるから憲法にないことでも日本の 天皇は臨時に「斯うせよ」と思召せば、憲法以外でもすることが出來る。それであるから國家總動員法などゝいふものは實はいらぬ。あんなものがなくても一向、差支へないのであります。~中略~ あんなものを法律で拵へて置いて法律で實行しなければ出來ないなどゝいふことは、西洋民族のやる仕事であつて、決して日本精神ぢやない。
さういふやうなことが日本の國を知らない爲めに間違ふのである。惡い心持ぢやない。皆、日本の國家の爲めだと思つてやることが、日本の國家を知らない爲めに間違ふことが多い。斯ういふことが甚だ困つたものであります』と。
大貳先生は、法と刑との誤用を指摘して、大にして日本、中にして藩、小にして邑、各々共同體としての自覺を取り戻したうへで制を設けることを主張する。この理想に到達すれば、豈に、一君萬民は觀念のみに止まる可き。
by sousiu | 2012-05-06 18:41 | 良書紹介