柳子新論抄  「安民第九」 

●山縣大貳先生、『柳子新論』「安民第九」に曰く、
『柳子曰く、魚の池に在るや、江海を思はざるはなし。鳥の樊籠に在るや、山林を思はざるはなし。是れ它なし。皆、其の自ら安んずる所なればなり。
即はち民の天下に於ける、豈に亦た然らざらんや

先王、其の必ず然るを知る。之を視ること子の如く、之を愛すること手足の如し。故に其の安んず可きを爲して、而して民、之に安んじ、其の樂しむ可きを爲して、而して民、之を樂しむ。其れ、既に安んず。又た既に樂しむ。是れを以て民の先王を視ることも、亦た猶ほ其の父母を視るが如し。孰れか其の仁に歸せざる者あらんや。詩に云ふ、豈弟の君子は、民の父母なり、と』、(※改行は、野生による。下記然り)


 上記は、民は自ら安ずる所を熱求する本性あるを指摘し、理想的政治形態の所謂る、先王の政とは、よくこの本性を知悉しそれに對處せしものなるを冒頭に述べてゐる。



●大貳先生の曰く、
『今、夫れ、浮屠の教(※浮屠之教=佛教)たるや、曰く、生きて善を爲す者は、死して樂地に入り、百福並び臻(「至」+「秦」=いた)る。其の惡を爲す者は、則はち地獄に墜ち、苦惱窮り無し、と。苟も其の説を聽く者は、駸々乎として其の善を勸めざるは無し。愀々乎として其の惡を懲らさゞるは無し。是れ它なし。其の安ずる所を欲すればなり。
夫れ天堂(※極樂のこと)と地獄は親しく見る處に非ず。而して必ず到るの地に非ざるなり。尚ほ且つ其の安樂を聞けば則はち之を喜び、其の苦惱を聞けば則はち之を懼る。豈に徒だ之を喜び懼るゝのみならんや。甚しきは則はち妻子を棄て、貨財を舍て、饑寒を患(うれ)へず、斧鑕(「金」+「質」=しつ)を怖れず、死を視ること歸するが如く、唯だ其の遄(之繞+「山」+「而」=すみや)かならざるを之れ憂ふ。是れ亦た它なし。生此の如くならずんば、則はち死安からざればなり。必ずしも得可からざるの安きを以て、忍ぶ可からざるの欲を斷つは、之を魚鳥の淵林に思ふに此するに豈に亦た甚しからずや。
且つ人は免る可からざるの患と雪(すゝ)ぐ可からざるの恥とあれば、則はち必ず曰く、死するに若かざるなり、と。
凶年飢歳に、走りて溝壑に赴く者は、免る可からざるの患を避くるなり。敗軍の將の刀を引きて自決するは、雪ぐ可からざるの恥を愧づればなり。此を以て之れを觀れば、安危苦樂の身に切なるや、死生よりも甚し』、

 こゝでは、民の「自ら安ずる所」を熱望する、死生より甚しきを例示した。





●大貳先生の曰く、仝、
『今、天下の諸侯は、國ごとに其の政を同じうせず、人ごとに其の俗を同じうせず。
而して、不學無術の徒は、徒らに目前の近利に徇(したが)ひて、經久の遠圖を忘る。賦斂措かず、法令常無く、賞罰中を失へば、則はち民は寧處に遑(いとま)あらずして、此を去りて彼れに就き、彼れを出でゝ之に入り、恟恟として唯だ其の免れんことを之れ求む。是れを以て四方の國、亡命して跡を滅する者少からず。而して土著の風變じ、群聚の俗興る。 ~中略~
嗟(あゝ)。夫れ今の刑を用ふるは、先王の法に由らずと雖も、而も其の事に處し、罪を論ずるは、必ずしも不當と爲さゞるなり。磔梟火刑の如きに至りては、則はち蠻夷の爲す所、之に加ふるに族滅を以てし、而して酷極まれり。故に一家を■(「火」+「番」)けば、則はち身既に灰となり、一禽を殺せば、則はち族頓(とみ)に赤し。彼れ若し長陵一抔の土を盜まんに、則はち吾れ未だ其の何を以て之に加へんかを知らざるなり。然りと雖も死は一なるのみ。日に其の口を減じ、月に其の戸を損するも、國其の弊を受けなば則はち已む。若し夫れ放逐して跡を削り、籍沒して死一等を減ずるは、則はち寛に似て實は太(はなは)だ酷なり。是れ唯だ割據の遺を承けて、而して苟且の策を立つるもの、要するに統一の制に非ざるなり。 ~中略~
夫れ然らば則はち窮する者日に多く、而も仁は及ばず、賊する者日に衆(おほ)く、而も刑は及ばず。既に其の安んず可きに安んぜず。又た其の懼る可きに懼れずんば、必ず覬覦の徒あるに至らん』、


 ○内容の解説に曰く、
『轉じて、現實社會の批判に移り、先づ、當代の爲政者の政治のやり方が、民の「自ら安ずる所」を顧慮せざるを難じ、ついで、刑法の不當不備を論じてゐる』、


 江戸時代に於て、幕府諸大名は、各々その封土を守る可く、兵力の保持、收税、防牒、治安の維持の爲め、藩士・百姓・町人の領外に出でることを制限し、一方では、浪人・缺落等の藩内に入ることも制限した。
 殊に農民に對しては、寛永廿年以來、移轉の自由を制限した(郷村觸書)。
 それにも關はらず、農家には郷を相次いで捨てる者が續出した。
 農民の土に對する愛着は當時も取り分け強く、それでも彼れらが離村せざるを得なかつた事情は、他の身分の者の場合よりも同情す可きものがある。
 農民離村の態樣としては、都市に吸收せられ、新田開發地に誘引され、又た他藩へ移民として招致されたもの、及び逃散が考へられる。「編民第七」參照↓↓↓
          http://sousiu.exblog.jp/17509033/

 こゝに於て問題視される可き逃散は、初期に於ては一家、又たは、數家族の逃亡に過ぎなかつたが、後には公然と行はれた。彼れらは徒黨を組み始め、畢竟、示威運動を主目的とする百姓一揆となつてゆく。
 政情の不安が社會の混亂を招來することは、畢竟、いつの世も避け難き宿命だ。

 然るに、之を、奈何とする。





●大貳先生の曰く、仝、
『且つ今、天下の士と民とは、固より其の君を愛せざるに非ざるなり。又た其の上を懷(おも)はざるに非ざるなり。然れども、苟も其の職に安んぜざれば、則はち或は奇邪の行を爲し、其の業に安んぜざれば、則はち變じて末利の利を爲す。彼は皆、此の安からざるを厭ひて、彼れの安んず可きを見るが故なり。諸(これ)を火の燥(かは)けるに就き、水の濕(うるほ)へるに就くに譬(たと)ふ。其れ曷(なん)ぞ拒ぐ可けんや。若し彼の安んず可きを以て、此の安んぜざるに易ふれば、則はち必ず然らざるなり。之を安んずるの道は奈何。
曰く、今の政を爲す者は、概ね皆、聚斂附益の徒にして、其の禍を蒙る者は、獨り農を甚しと爲す。若し能く循廉の吏を用ゐて、農桑の利を奪ふこと無くんば、則はち天下、食足らん。天下食足りて而して後に、民其の業に安んずるなり。又た循廉の吏を用ゐて、商賈の利を縱(ほしいまゝ)にせしむること無くんば、則はち天下財足らん。天下財足りて而して後に、士其の職に安んずるなり。士安んずれば則はち國強く、民安んずれば則はち國富む國強くして、且つ富むは、天下の福なり。夫れ然る後に禮樂興す可きなり。賞罰明にす可きなり。是れを之れ民を安んずるの道と謂ひ、是れを之長久の策と謂ふ』()



 農工商賈、之を民の良と謂ふ。所謂る、良なる者は、用を利し、生を厚くし、相輔け相養ひて、以て國家に益ある者なり。故に先王は師を立てゝ以て之を教へ、官を立てゝ以て之を治め、之を愛し之を親しみ、之を視ること子の如く、編伍に制有り、使役に法有り、推して以て士と相齒して之を四民と謂ふ。良たる所以なり。
 若し夫れ、倡優戯子(※倡優は役者の意。倡は女、優は男。戯子は俳優のこと)は則はち人の利に由り、人の財を受け、以て人の耳目を悦ばし、徒(いたづら)に其の口腹を養ふのみにして、人の衣食を爲(つく)る能はず。之を存するも國家に益無く、存せざるも國家に害無し。故に先王、之を斥けて四民と伍せしめず、戸籍相別ち、婚姻通ぜず。是れ其の民を視ること、愛に等あり、親に差あり、類分群聚、之をして各々其の業を專らにして、以て其の生を遂げしむるもの、仁の道在り』(「安民第九」完)と。

 天下の士民が、皆、藩主を愛し上を懷ひつゝも、奇邪の行、末利の計を爲すは、畢竟、彼れらが「自ら安ずる所」を得てゐないからであつて、その對策としては、循廉の吏を用ゐ、勸農抑商の政策を勵行せよ、とかういふことである。

 繰り返し、大貳先生は、商人擡頭を抑へねばならぬことを主張し、同時に、農事勵行を積極的に訴へてゐる。
 この時代、一般に町人から公然と租税を徴集することは行はれてをらず、農民のみが納税の義務を課せられてゐた。農民の困窮たるや想像を絶するものがあつた。「天民第六」參照↓↓↓
             http://sousiu.exblog.jp/17499454/


 基本的に、徳川幕府に始終、粘いて廻りたる苦惱の種は、經濟問題だつた。

 徳川幕府時代の經濟界は、その總てと云はざるも、概ね、殆ど米穀が主たる要素であつた。
 當時、租税といふ可き物の主なるものは、米穀であつた。即はち、將軍以下、總ての大小名より旗本、一切の侍は、單に米を食らうて生きてゐるだけでなく、社會に向かつては、米穀の供給者であつた。つまり米穀を食料とするのみでなく、米穀を衣服とし、米穀を家屋とし、或は米穀を以て彼れらに使役する家來、下男、下女とした。固より彼れらの知行からの收入、役料も多くは米穀であつた。

 米穀が食物の主要のみならず、米穀を以て報償の代用とする社會に於ては、一豐一凶の社會に與へる影響は、孰れも多大であつた。
 凶作の年は、彼れらが米穀の收入を缺乏せしめた。
 だがしかし、豐作の年も困つた。豐年で米を視ること土の如くあつては、米價は下落し、その爲めに、本來米穀によつて得らるゝ對價や貨幣が高騰した。よつて豐年では社會一般に不景氣を招致した。米價低落は武士と百姓に直接、大打撃を與へた。
 豐凶ごとに、社會には多大なる影響を與へざるを得ない。その爲め幕府は、開幕以來、米價の調節を政治の一大要目とし、その實行に苦心した。就中、凶作の明くる年が豐作、或は其の逆となりたる場合は、ことに農家にとつては深刻であつた。都度、恰も、掌を反されるが如くであつたからだ。

 大貳先生は、單なる淺薄な農本主義として、農事を獎勵し、一方には商人を抑壓せんと主張するでない。
 徳川幕府に於ける、今日から視れば特殊な社會の經濟構造に於て、かく持論に至る。
 されど、この當時の人から現代をみれば、是れ又た特殊な構造と云はざるを得ぬであらう。
 吾人は政治形態に目を奪はれるでなく、如何なる體制下にあつても、これを打開し得る可くの發想と見識もて理想を掲げねばならぬ。その基準となる可き大事として、萬世不磨の國體を戴いてをることに、民族の幸福を想はざるを得ぬ。先人の思考囘路を辿るゝに、これは一層明解である。吾人は先人の足跡を、應用せながら、辿つて行かねばならぬ。
[PR]

by sousiu | 2012-05-08 15:21 | 良書紹介

<< 柳子新論抄  「守業第十」  柳子新論抄  「勸士第八」  >>