柳子新論抄  「利害第十二」  坤。 

~承前~

●大貳先生の曰く、仝、
『且つ夫れ刑罰は、豈に特(ひとり)民の非を爲すを禁ずるのみならんや。苟も害を天下に爲す者は、國君と雖も必ず之を罰し、克(か)たざれば則はち兵を擧げて之を伐つ。故に湯の夏を伐ち、武の殷を伐つも、亦た皆、其の大なる者なり。
唯だ其の天子より出づれば、則はち有道と爲し、諸侯より出づれば、則はち無道と爲す。況んや其の群下者より出づるものをや。故に善く之を用ふれば則はち君たり、善く之を用ひざれば則はち賊たり。
さきに湯武をして志、徒に其の害を除くに在り、其の利を興すに心無からしめんか、此れ亦た爭奪して己を利するのみ。何ぞ以て仁と爲さんや。是の故に湯武の放伐は、無道の世に在りて、尚ほ、能く有道の事を爲せば、則はち此は以て君と爲り、彼は以て賊と爲る。假令、其の群下に在るも、善く之を用ゐて以て其の害を除き、而して志、其の利を興すに在れば、則はち放伐も亦た、且つ以て仁と爲す可し。它無し。民と志を同じくすればなり』、

○譯文解説
『この刑罰と云ふものは、決して人民の非行をのみ罰するものではないのであつて、その法の性質上、苟も國家を害する者であつたなら一國の領主と雖も罰せずには措かないものであつて、もしその罰を受けなければ軍隊の力を以て之を討伐するのである。故に殷の湯王は、國を害する暴君であるとして夏の桀王を討ち、周の武王復殷の紂王を討つたのである。之等はその著しい例であるけれども、この樣な場合を考へて見ると、苟も一國の君主を討つのであるから、その討伐の兵を擧げる者が又一國の君主である場合には道義に適つたものとし、又之が臣下の諸侯に依つて企てられた場合には、道義に反するものとされるのであつて、まして身分の低い者に依つて企てられた場合には全く許し難い反逆であるとさへ見做されるものであるから、この國害を除くと云ふことも、その用ひ方が當を得てゐれば、君主の善行ともなり、當えお失すれば逆賊となるのである。併し乍らこの國害を除くと云ふことも、單に之を除いただけでは意味をなさないのであつて、例へば前例の湯王や武王の場合を考へて見ても彼等の意志が單に國害を除くと云ふことだけであつて、國利を増進させようとする考へが無かつたとしたらどうであらうか。これでは唯國家の支配權を奪ひ合つて、自分の利益を收めようとするのと何等異なる處がないのであつて、どうして彼等を仁君と稱することが出來ようか。彼等が仁君として後世の人々からも敬はれると云ふのも、この放伐(無道の君を放逐し、之に代つて王位に就くこと)に依つて、暴君を討ち滅ぼすと同時に、善政を布き、かゝる亂世に在つても良く國利を作興せんとしたからこそ君と呼ばれ、又討たれた桀王や紂王は賊と呼ばれるやうになつたのである。であるから假令臣下であつても、かゝる方法で暴君を斃し、國利の作興を圖れば、この湯王や武王の擧と同樣に放伐と呼ばれ、仁義の擧と云はれるであらう。その理由は他でもない、一般の國民が同じ樣に考へてゐる事を、その代表となつて實行するからである』

 この一節にて注目せねばならぬことは、「放伐是認論」といふことである。

 出典した譯文の著者、飯塚重威氏は以下の如く、之を解説してゐる。
○『柳子は例を支那の歴史中に求め、爲政者たるの資格を喪失した者は、當然負ふべき運命に從つて、直ちに滅せられるとして政權推移の一形態「放伐」に就いて述べてゐるが、然もこの「放伐」は、政治の大理想である國家を利さんとする意圖の許に行はれるなれば、「放伐も亦た且つ以て仁となすべし」と論談してゐるのである。此處に於て彼は、幕府も爲政者たるの資格を喪失してゐる以上當然「放伐的」形式に依つて、之を打倒せねばならぬ事を暗示してゐるのであるが、同時に幕府の甚しい内的腐敗は、「その窮るや必ず自ら滅すに至るのみ」と述べ、必らずやその自壞作用に依つても崩壞し去るべしと推論してゐる』と。

 勿論、上記、大貳先生の言は、倒幕を暗示してゐる以外の何物でもない。
 だが、されど吾人は、「倒幕」の名の下に於ては、何でもかでも諒とするに、聊か躊躇ふものがあらねばならぬ。
 そこには、思想性を無視する譯にはならないのである。
 曾て、陣營の諸先輩は、凡そ街頭に赤旗が潮の如くあつたとき、これを撃退するに、假り初めにも「反共」を標榜する者であれば何でもかでも握手するといふやうな、破廉恥な振る舞ひはせなかつた。「勝共連合」などと云ふいかゞはしき團體とスクラムを組む能はざりし先輩の矜恃あつたことを、野生は今でも誇りに思うてゐる。

 出典した校訂の著者、鳥巣通明先生の解説は以下である。
○曰く、『放伐論は、支那に於て、既に古くより思想界を賑はした題目で、我が近世の儒者によつても熱心に討議された。けだし、儒教に於ては、爲政者の、政治上の職分を規定して、先王の道を繼述して、仁政即ち善政を布くべき道徳的義務の荷擔者であるとする。從つて、もし主權者がその政治的職分を果さず、民心が彼より離れ去る時は、直ちに爲政者たるの地位に關はるものと解せられ、孟子一度湯武を肯定してより、革命是認の説が強く、我國に於ても自國の傳統を無視し、支那文化に追隨した人々によつて雷同せられた。これに對して山崎闇齋先生が湯武放伐を論じ、拘幽操を表章して放伐否定の態度を明らかにせられた事は有名であるが、その高弟淺見絅齋先生、又拘幽操を講じて「桀紂ニモセヨ、誰ニモセヨ、讒ヲ用フルニモセヨ、ドチヘドウシテモ、唯イトヲシイヨリ外ナイ。天命ニ順ヒ、人心ニ應ズルト云樣ナコトガ、イマイマシウテドウモナラレヌ所ガ至徳ニテ云々」と喝破し、爾來放伐論は、垂加神道を奉ずる人は云ふまでもなく、絅齋先生の學脈をつぐ人々に於て、最も明白に否認せられたのである。然るに、山縣大貳が、崎門の學統を受けつゝも、放伐是認の言説を洩してゐるのは、すでに文武第三の章に於て觸れた如く、所謂崎門三傑(この人選には僭越ながら、私は根本的な疑義をいだいてゐる)に數へられつゝも、實は、闇齋先生の精神を理解することができず、むしろ反駁の態度に出た三宅尚齋の流を汲み、又革命を是認した徂徠學の影響下にあつたためであらう。勿論、大貳の説くところは、幕府の存在を正當化せんが爲めに御用學者によつて唱道された放伐肯定と區別さるべきであり、彼が武家政治を否定し、主觀的には 皇政復古を目ざしたことも亦認められるべきであるが、その革新の原理、立場は、人文第三の章に於て指摘せる如く、不幸にも未だ儒學思想を完全には脱却してゐなかつたのである』と。

 さすがは、平泉澄先生の御講義を受講なされ、垂加神道、崎門學を研究なされた鳥巣先生である。
 而、鳥巣先生の辛辣な意見は續く。

○『~承前。前述の如く、政治の要諦として彼が「正名」を説き、「得一」を主張し、「大體」を論ずるのは確かに傾聽すべき卓見である。然しながら、それは志向態度の正しさであつて、「正名」、「得一」「大體」等が如何なる實質的主張内容をもつかは自ら別問題である。こゝに見る如く、柳子新論は、その點を檢討することによつて破綻を暴露するかに思はれる。「其間忠義ヲ奮ヒ命ヲ殞シ節ニ赴ク者アリドモ、君臣ノ義ニ於テ練達講磨スル所或ハ精シカラザレバ心私ナシトイヘドモ、義ニ悖リ忠ヲ失フ者皆是也」とは淺見絅齋先生の語であるが(靖獻遺言講義上)、心私なく、眞摯國を憂へ、勇敢に時弊を解剖し、その革新に邁進した山縣大貳は、君臣の義に於て練達講磨するところ精しからざりしが故に、換言すれば、國史を云爲しつゝも革新の原理を外國思想に求めしが故に、無意識の中に大いなる過誤を犯し、義に悖り忠を失つたものであらう。まことに傷ましき悲劇。吾々としては嚴正に然も同情を以てこの點、柳子新論を辨析すると共に、今日の問題として深思すべきであらう』と。

◎九段塾 ◆◆崎門學筌蹄――埀加靈社・山崎闇齋先生の學問。↓↓↓
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 難しき哉、面白き哉、學問は。
 こと崎門學の深さ、野生の如きに到底測る能はざるも、奧の深くあること丈は識れるのである。
 日本に思想なし、とは戰後のことだ。
 戰前は、然程、譽められたものではないかも知れないが、あつた。
 況して、明治維新前は、きら星の如く光を發する思想が、おほくあつた。已んぬるかな、今は筐底に祕せられた如くであることが、兔も角悔まれてならぬ。

 野生は先々月、「三百年前の日本」を記して、一應、覺束なきも、當時の思想的状況に就て述べて來た。
 まづは、新井白石に就て簡單に述べた。
 大貳先生は、尚齋先生の門戸を叩くも、徂徠の思想的影響も亦た存してゐた。
 官學の影響は、かの大貳先生をしても少々の混亂を生ぜしめ、鳥巣先生の批判を誘發した。

 因みに寶暦事件と明和事件の關係在りしを斷定したのは、野生の一讀した九册の古書にあつて、先に引用した飯塚重威氏の著作『山縣大貳正傳』のみであつた。他は、無し、とするも、明白ならずとするも、兔に角、肯定してゐない。
 野生も肯定せなんだは、竹内式部先生は、淺見絅齋先生の學統だ。たとひ崎門學と一括りしても、上記にある如く、その距離は決して近きに非ず。共に倒幕の蹶起を企てたるとは、到底思へない。
 その差は部分的に止まるにせよ、距離は甚だ遠くなることを、思想運動を行ふ吾人は悟るところありとしたいものである。

 だが「柳子新論」に教はるところは是れ丈に止まらぬ。
 それを説明せんに、又た々ゝ鳥巣先生の意見を先に掲げねばならぬ。
○曰く、
『(徳川中期の當時に於て)尊王論の發展に貢獻したと云はれる國學者等も、古典に通じ古道に明らかではあつたが、幕府の存在を否定するに至らず、 ~中略~ かくの如く痛烈に武家政治を批判したのは、柳子新論の意義を大ならしむるものである。その思想に純正ならざりし點はあるにせよ、この功績は高く評價しなければならぬ』と。

 神道が世に隆盛を誇つた佛教、儒教との關係に交錯せられながら時と共に、先達の究學によつて益々純化され、遂には復古神道が世に廣告された。國學も亦た同樣だ。大貳先生の柳子新論も、其の過程にあつたと見做さねばならぬ。又た、その過程と云はんか、歩を進めたといふ點に於て、柳子新論、山縣大貳、明和事件は、多大なる貢獻者と見做さねばならぬ。
 鳥巣先生のごとく見識眼の持ち主は別として、後世の盲目者たる野生が之を批判する譯にはゆくまい。

 愚案。今日の卓見も、百年後、二百年後の識者からみれば、缺陷、乃至は不足たる可きことがらが發見されるであらう。否、發見されてこそ、國學は發達したと斯く云へるわけであり、それをば、喜びとせねばならない。
 嘗て野生は、不二歌道會發行の機關誌『不二』の表紙に書かれてある『平成維新と新國學』なる言葉が好きであることを述べた。亦た、啻に野生が好むだけでなく、目下、日本に必要であることを述べた。
 國學に就ては、是れ亦た不勉強で恥かしき限りであるが、現代の吾人は、研學を重ねて、國學の發展に寄與せねばならぬと思ふのである。
 陸續として出來せる時局問題に取り組むことを決して無意義とせない。さりとて、それに始終して滿足してもならぬ。野生はかく思ふのである。先達の古書は、吾人の、何よりの生ける教科書だ。





●大貳先生の曰く、仝、
『是れに由りて之を觀れば、天下國家に長たる者は、文有りて而る後に武、言ふ可きなり。禮樂有りて而る後に刑罰行ふ可きなり。然らずして、徒に刑と罰とに之れ任ずれば、則はちかの人の戕(「爿」+「戈」=しやう)賊するに非ずして何ぞや。哀しいかな、衰世の政を爲す者、文無く、武無く、禮刑並び廢して、たゞ其の利を興すに心無きのみならず、又た其の害を除くに心無きなり。夫れ其の利を興すに心無き者は、必ず以て自ら利し、其の害を除くに心無き者は、必ず以て人を害す。人を害して自ら利する、虐孰れは焉(これ)より大ならん。是れを以て、亂國の君は力めて其の國を利して、以て人の國を害し、大夫は力めて其の家を利して、以て人の家を害し、士は力めて其の身を利して、以て其の僚友を害す。
甚しきは則はち、君も亦た、自ら其の身を利して、以て其の民を害し、大夫自ら其の身を利して、以て其の家を害す。是れを以て自ら屠る、と謂ふ。
其の極や、必ず身を滅すに至りて而して、後に已まむ。故に我が東方の政は、壽治の後、吾れ取ること無きなり。聖人其の此の如きを憂へ、禮を制し、樂を作し、中を立て、和を道(い)ひ、務めて其の利を興し、務めて其の害を除き、衆庶保つ可く、此屋封ず可くして、以て永(とこしな)へに天下の福を致す。
詩に曰く、於戯(あゝ)前王忘れられず、と。其れ唯だ此を以てなるか。
嗚呼、夫れ、今の時の如きは、依然として軍國の制を承け、滔々乎として反るを知らざるもの、歎息せざらんと欲すと雖も、其れ得可けんや』


 譯文解説の必要は、前記で既に終はつたので、從來通りに戻すことゝする。野生も愈々疲れたり。
 ○内容の解説に曰く、
『再び禮樂と刑罰の關係の問題にかへり、衰世の一般的樣相を掲げ、國史上壽治以後、即はち武家政治の世を亂國と明言し、當代社會について歎息する』、




●大貳先生の曰く、仝、
『然らば則はち之を如何にせん。
曰く、是れ唯だ人を得るに在り。人を得るは難きに非ず(※下記參照)、人に獲らるゝを難しと爲す。
昔は荊靈細腰を好み、民、食を約して死する者有りき。越王、勇力を好み、一鼓して、士焚舟を避けざりき。夫れ食を約して死すると、焚舟に赴くとは天下の至難なるものなり。然るに上の好む所は、令せずして之を爲す。它なし。人に獲らるゝの難くして、而して之を欲すること甚しきが爲めなり。況んや其の至難に非ざるものをや。
苟も能く之を好まば、趾を重ねて至らんのみ。此を爲さずして彼を爲すは、要するに利を興すに心無きものなるかな』と。(「利害第十二」完)



 ○内容の解説に曰く、
『前段に見たやうな禮刑並び廢してゐる現状の打開策を求めて、「是れ唯だ人を得るに在り」となし、人材を得る方法を論じたもの』

※「人を得るは難きに非ず(原文「得人非難」云々)」
禮刑並廢してゐるにしても、時代を救ふ人物は必ず存在するの意。幕末の志士、眞木和泉守も蔓延二年三月「野宮定功卿に上りし書」に、「人材と申も、おのづから其國を治め候だけの人才は、いつも御座候ものにて、古人も才を異代に不求と申候へば、只今にても 神武帝の珍彦を漁父よりあげ、饒速日を降人より取り、 天智帝の鎌足公と■(「革」+「菊」)場にて交を結び、旻法師高文理を異端他邦より擧げ玉ひし如く致候はゞ、いか樣の人もいか程の物も出可申」と云つてゐる。今日人がないといふがこれは愚劣の見解で、人物はあるが、たゞ、それを用ゐないだけである


 結局、今囘は、抄録ならぬ、全文を掲げるに至つた。

 誤解を避けんが爲め斷わらねばならぬが、野生は、「柳子新論」に些かも傷を付けんとするものではない。
 寧ろ本書から學ぶ可きこと多しを微力乍ら宣傳するものである。
 そは、明治維新を遂げた尊皇論の發展に寄與したといふ點に於てのみ是れを云ふでなく、思想を唱へるに際して決して閑却す可からざるを學ぶ教本としてのみならず、固より、大貳先生の社會と時代を大觀する其の視點を通じて、吾人の目となれ感性となれ今後の吾人の研鑽の爲めにも吸收するところ大と確信して憚らないものである。
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by sousiu | 2012-05-11 20:58 | 良書紹介

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