最近、夢中になつてゐること。 

 目下、福岡縣にある「芳論新報社」の機關誌『芳論新報』に於て、徳川時代に就て、毎月狹見をつゞつてゐる。

 野生思ふに、皇國に於ける一大政變の顯著な成功例は、明治維新を最近としてみなければならぬ。
 當時の政治體制や時代環境と、今日のそれとが異るのは當然であるが、野生の微志が復古中興に歸さんとするものであれば、仆される可き徳川時代を識ることも決して無益でないと考へものである。

 それ、とは、明治維新何たるかを考へるとき、その原動力と云はんか、動機と云はんか、皇室尊崇の志を見出さゞる能はざることは申すまでもない。
 そこで生じ難ねぬのは、仆した側が官軍であつたから、仆された側(つまり幕府)に、尊皇心、戀闕の情が皆無とまで云はずんば僅少であつたと見做すの誤解である。
 慶應動亂が「攘夷派對開國派」、乃至は「討幕派對佐幕派」と一語に附して説明すればそれまでであるが、實際はこのやうな單純で一面的な對立構造ではない(個人的、或は一派的暗鬪や明爭はあつたにせよ)。以爲くこのやうな圖式による説明は、後世の淺薄な歴史家による便宜上のものである。開國的討幕派もあつたし、攘夷的佐幕派もあつた。公武合體派にも詳察すればそれゞゝ相違はあつた。いづれにせよ日本に於て、討つ側にも討たれる側にも、皇室崇拜の念があつたことは疑ふまでもない。

 では、何故に徳川幕府は仆されねばならなかつたのか。
 そは、武家による政治體制が日本の眞相からしても、御國體の上からみても、餘りにも變體であつたからだ。
 固より武家政治の發端には、變體ならざるを得なかつた理由はあつた。
 だが、下剋上を常態とした國内戰亂の時代も終熄、徳川幕府の、謂はゞ、應急措置的任務は、二百六十年をして既に用無きを得た。尤もそれが幕府側の自悟するところであつたか否かは姑く措くにせよ。

 幕府に、乃至は佐幕の士に、戀闕の念が無かつたと一蹴しては、何も學ぶところが無くなつてしまふ。
 勝てば官軍、負ければ賊軍といふが、それはその通りであるけれども、極端なる思考は無理解に陷り、維新後に生じた明治初期の悲しむ可き確執や祖語、そして對決の眞相を見誤らせてしまふのである。
 然るに野生は、彼れら仆される可き側であつた徳川幕府の内にも尊皇の念があつたことを認め、これを繙く可く試みに沒頭してゐる。世に人の云ふ、戰前史觀と戰後史觀は大に隔るものあり、と。だが何うであらう、維新前史觀と維新後史觀の懸隔は、それに倍して猶ほ餘りあるほどでは無かつたか。

 譯知り顏で論ずるほどの研究も達し得てゐないので、何らこれに就てこゝで述するわけにもまゐらぬが、日本はやはり深奧なることこの上ないと識るものである。乞ふ諸賢の御教導得られむことを。
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by sousiu | 2012-07-27 19:21 | その他

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