神縁。 

 九月八日土曜日は、山口健太郎兄の御誘掖を以て奇縁を賜はつた。
 關西より上京された御影舍大人は、「平田派の學問とその實踐面としての神仙道」を研究されてゐる人だ。
 新宿某所の待ち合はせ場所に著くと、既に到着してゐた近藤勝博、木川智兩兄と合流。先方は御影舍大人と健太郎兄の他に神職や神道研究家などもをられた。
 謂はゞ古神道家と右翼運動家との面會だ。

 野生は現在、馬に喰はせるほど溢れた机上の時局評論では、到底今日の現状を突破前進し得ないと確信してゐる。弊社など大した實績もないが、それでもこれまで、己れの出來得る範圍のことは全力で行なつてきた積もりだ。その挫折と敗北を繰り返し經驗して、到達した結論だ。

 氣の毒にも唯物史觀や無神論に淫された者たちは、安易に權利の得失を以て今日の日本を繰り返し憂慮するが、如何にみてもそこには批判のみあつて思想らしきものは見當らない。
 言論が淺薄なら、行動は曾ての解同の如き代物。解同の正體は何ぞや。

 元來、思想や信仰に偉大なる力が存してゐることは云ふまでもない。
 尤も資源や權利の保護、或は獲得を忽せにせよと云ふ積もりは毛頭ない。野生は大衆を説得するには、これらの方便に即效性のあることも認めてゐる。
 だが、それには偉大と呼べるほどの力は存してゐない。
 權利思想はいつの間にやらどこまでも伸張し、遂には戰爭に撞着することは、西洋史にみても明らかだ。

 よつて野生は日本固有の思想や信仰に興味が少なくなく、古神道に就ても學ばねばならぬところ大と思ふものである。然るに今度びの健太郎兄の御誘ひは大變難有く思ふ次第である。

 御影舍大人から、所謂る神仙道と支那の道教との相違や、古神道からみる尊皇觀を御教示いたゞいた。
 又た、解散のころ、傳法を我れら三人に授けて下さつた。
 固より無知に近しき野生であるが、次々に無知を知らされることが則はち、日本の深奧を知らされるやうで、これが實に嬉しい思ひなのである。
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by sousiu | 2012-09-10 14:50 | 日々所感

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