『帝室論』 一 

 昨日廿日は、木川青年が來横した。
 共にお勉強の時間を過ごした。
 野生も、偶にはお勉強をする。釣りばかりやつてゐるわけではない。

 その木川青年、先日の時對協懇親會で曰く、
 『僕が大學で教はつてゐる教授は左翼だが、彼れらは 皇室に對して本當に能く勉強をしてゐる。彼れらほど、皇室に就て學んでゐる者が、果して右翼にゐるだらうか』と。
 心情面では認めたくないが、こは、事實と云ふ可きである。
 「尊皇」と云うてさへゐれば我が陣營の模範生と云はずんば、資格者だといふものではない。
 「尊皇」とはなにか、これを答へる能はざるして、他者に「尊皇心が無いので貴奴は怪しからぬ」といふは何う考へても辻褄が合はない。若しもこの矛盾を矛盾とせずして滿足するならば、尊皇家と自稱するほどの人が、皇室論に於て、左翼に完敗することゝなつてしまふ。
 尤も野生はそれで滿足する能はぬ。然るが故に現在、勤皇の基礎を固める作業に著手するのである。

●頭山統一翁、昭和六十一年八月廿一日『日本皇室論』(昭和六十二年五月廿七日『島津書房』發行)に曰く、
『しかるに昭和二十年に、日本帝國が敗戰の日を迎へる暗黒の時代になつて、それまでの近代的皇室理論の不勉強が、日本國民の著しい弱點として、はつきりと現はれた。明治初期のヘコヲビ書生と同程度の反天皇制理論が横行しても、それに對して、「國民感情が同感しない」と言ふ程度の反論のほかに用意がないと言ふ極端な理論の缺如が露呈された』と。

 ところで先般、福澤諭吉氏の『帝室論』を一讀した。
 野生は、過日、「不二」紙上に於て、「維新後史觀の脱却」を訴へたのであるが、それに伴ひ、明治時代の 皇室論や議會誕生の過程に就て、如何なる意見があつたか興味を覺えた爲めだ。

 福澤氏に就ての評判は贊否兩論だ。少なくとも、氏は洋學者である。野生は「西洋事情」ほか二、三の著述を讀んだ程度で、氏の思想に詳しくはないが、どちらかと云へば宜い印象を持つてゐなかつた。
 であるからこそ、猶ほのことゝして、彼れの『帝室論』は如何なるものか、興味がそゝられたわけである。

 (野生にとつては)意外であつたが、退屈する暇もなく、通讀出來た。
 固より逐一首肯する能はざるも、今日本屋に立ち竝ぶ(やたら六ケ敷く書かれてあるが中身は希薄なる)鹿爪顏した保守論客の 皇室論よりも、讀み應へがあつたと認めざるを得ない。

 『帝室論』は、立憲帝政黨の出現に對する諭吉氏の憤慨から、皇室は政治社外であるとす可き立場に立つて、つまり之を説明したものだ。
 野生は曾て、備中處士氏に『何よりも重要な事は、先づ「疑つて讀む」こと』と教はつたことがある。
 今度びの『帝室論』も疑つて、といふより讀みながら反論す可く、讀んでみた。
 福澤諭吉の洋學者たる一面を以て好ましく思はぬ尊皇家あるならば、啻に「洋學者の云ふ 皇室論なんざくだらぬ」と云はず、論破を試みる可きが道理だ。

 この書は殊更ら緊張感を以て執筆に當つたといふ福澤氏であるが、より力瘤を入れたであらうと思はれる箇所を抄録してみる。
 諸賢も反論す可く、之を御一讀いたゞきたい。(斷わつておくが野生は必ずしも福澤氏を尊皇家と云うて過大評價して彼れを宣傳するものではない。固より福澤氏から一錢すら辯護の報酬を貰ふものでもない。尤も、諭吉が多く我が家を訪れ、諭吉で我が室が埋め盡されむを願ふにせよ)


●福澤諭吉氏、明治十五年四月廿六日、『帝室論』(明治四十四年『時事新報社』發行)一に曰く、
『帝室は政治社外のものなり。苟も日本國に居て政治を談じ政治に關する者は、其主義に於て帝室の尊嚴と其神聖とを濫用す可らずとの事は我輩の持論にして、之を古來の史乘に徴するに、日本國の人民が此尊嚴神聖を用ひて直に日本の人民に敵したることもなく、又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし。往古の事は姑く擱き、鎌倉以來世に亂臣賊子と稱する者ありと雖ども、其亂賊は帝室に對するの亂賊に非ずして、北條足利の如き最も亂賊視せらるゝ者なりと雖ども、尚且大義名分をば蔑如するを得ず。左れば此亂臣賊子の名は日本人民の中にて各主義を異にし、帝室を奉ずるの法は斯の如くす可し、斯の如くす可からずとて、互に其遵奉の方法を爭ひ、天下の輿論に亂賊視せらるゝ者は亂臣賊子と爲り、忠義視せらるゝ者は忠臣義士たるのみ。我輩固より此亂臣賊子の罪を免すに非ず、之を惡み之を責めて止まずと雖ども、這(こ)は唯我々臣子の分に於て然るのみ。遙に高き帝室より降臨すれば亂賊も亦是れ等しく日本國内の臣子にして、天覆地載の仁に輕重厚薄ある可らず。或は一時一部の人民が方向に迷ふて針路を誤ることも一時これを叱るに過ぎず、其これを叱るや父母が子供の喧嘩して騷々しきを叱るに等しく、之を惡むに非ず唯これを制するのみにして、僅に其一時を過れば又これを問はず、依然たる日本國民にして帝室の臣子なり。例へば近く維新の時に當て官軍に抗したる者あり、其時には恰も帝室に抗したるが如くに見えたれども、其眞實に於ては決して然らざるが故に、事收るの後は之を赦すのみならず又隨て之を撫育し給ふに非ずや』と。

 これは冒頭の一節だ。
 先づ氏は、日本が 皇國であることを認めてゐない者は(顯在的意識と潛在的意識の別あるにせよ)存在しない、と斷言してゐる。
 勿論、これまで、國内では囘避し難き葛藤、齟齬あり。不運にも戰亂が勃發した場合さへあつた。
 さらばそこには必然、討つ可き側と討たれる可き側の別が生ずる。されど討つ側も討たれる側も、皇室を何のやうに奉戴するかの別こそあれ、いづれも 崇拜の念皆無で無かつたといふわけだ。畢竟、日本人、皆、天皇赤子ならざるはなし、の論だ。


○曰く、(中略)『右の如く我日本國に於ては古來今に至るまで眞實の亂臣賊子なし、今後千萬年も是れある可らず。或は今日にても狂愚者にして其言往々乘輪に觸るゝ者ある由傳聞したれども、是れとても眞に賊心あるとは思はれず、百千年來絶て無きものが今日頓に出現するも甚だ不審なり。若しも必ず是れありとせば其者は必ず瘋癲ならん、瘋癲なれば之を刑に處するに足らず、一種の檻に幽閉して可ならんのみ』と。

 これには野生も同意だ。野生は何でもかでも「國賊」と罵倒することには反對の立場だ。安易に「あれも國賊、これも國賊」と輕口を發する者、一見してその者は「日本國民皆 天皇赤子である」といふ確信があるやうに見えるが、寧ろ實はその反對で、不信から生ずる發言に他ならない。これは能く能く、吾人の省察せねばならぬことである。
 福澤氏のこの論に隨へば、渡邉文樹氏など可愛いもんだ。彼れを「國賊」と呼ぶは、大袈裟にも程がある。彼れがフーテンであるか否かは定かならねど(尤も彼れは一種の檻に何度も幽閉されてはゐるが)、彼れもまた、天皇赤子の一人であることは疑ふまでもない。
 而して、以下、早くも氏は本題に突入する。


○曰く、『去年十月國會開設の命ありしより、世上にも政黨を結合する者多く、何れにも我日本の政治は立憲國會政黨の風に一變することならん。此時節に當て我輩の最も憂慮する所のものは唯帝室に在り。把も政黨なるものは、各自に主義を異にして、自由改進と云ひ、保守々舊と稱して互に論鋒を爭ふと雖ども、結局政權の受授を爭ふて己れ自から權柄を執らんとする者に過ぎず。其爭に腕力兵器をこそ用ひざれども、事實の情況は源氏と平家と爭ひ、關東と大阪と相戰ふが如くにして、左黨右黨相對し、左黨に投票の多數を得て一朝に政權を掌握するは、關東の徳川氏が關原の一捷を以て政權を得たるものに異ならず、政黨の爭も隨分激しきものと知る可し。此爭論囂々の際に當て、帝室が左を助る歟又は右を庇護する等の事もあらば、熱中煩悶の政黨は一方の得意なる程に一方の不平を増し、其不平の極は帝室を怨望する者あるに至る可し』と。

 この文章は明治十五年四月廿六日の記述だ。期せずしてその凡そ一ケ月前(同年三月十三日)に、立憲帝政黨は結黨された。
 固より、氏の同黨に對する批判の前提であることは云ふまでもない。


○曰く、『其趣は無辜の子供等が家内に喧嘩する處へ父母が其一方に左袒するに異ならず、誠に得策に非ざるなり。加之(しかのみならず)政黨の進退は十數年を待たず、大抵三五年を以て新陳代謝す可きものなれば、其交代毎に一方の政黨が帝室に向ひ又これに背くが如きあらば、帝室は恰も政治社會の塵芥中に陷りて、其無上の尊嚴を害して、其無比の神聖を損するなきを期す可らず、國の爲に憂慮す可きの大なるものなり』と。

 つまり、當時既に布かれてゐた民主政治では、皇室が直接この社中に關はることによつて、その尊嚴、神聖は大きく損なつてしまふことを危惧してゐる。
 逆言せば、民主政治の涜れたる本質を認めてゐることゝ云へなくもない。


○曰く、(中略)『帝室は萬機を統(すぶ)るものなり、萬機に當るものに非ず。統ると當るとは大に區別あり、之を推考すること緊要なり。又皇學者流が固く其守る所を守るが爲に、其主義時としては宗旨論の如くなり、苟も己れに異なる者は之を容れずして却て自から其主義の分布を妨るものあるが如し。人をして我主義に入らしめんと欲せば、之に入るの門を開くこそ緊要なれ、是等は我輩の感服せざる所なり。我輩は赤面ながら不學にして神代の歴史を知らず、又舊記に暗しと雖ども、我帝室の一系萬世にして今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは明に之を了解して疑はざるものなり。此一點は皇學者と同説なるを信ず、是即ち我輩が今日國會の將さに開かんとするに當て、特に帝室の獨立を祈り、遙に政治の上に立て下界に降臨し、偏なく黨なく以て其尊嚴神聖を無窮に傳へんことを願ふ由縁なり』と。

 このあたりの論法は、之を眞似たのか、有名人と權力者好きの、どこぞの自稱新右翼たる賣文屋の發言に似てゐるが、その内容、本質は雪と墨との相違がある。
 これにて一の項は終はる。結局九割方を書き出してしまつた。
 この書き方は「柳子新論」で懲りた筈の野生であつたが、今一度、「腱鞘炎知らず」を相棒として頑張つて續けたい。

 繰り返すが、抑もこの一書を野生が手にしたのは、今日の閉塞したる刻下状況を突破する爲めには、戰後史觀の脱却でなく維新後史觀の脱却を試みんとする爲めに繙いたのである。
 氏の論を總て鵜呑みにしたものでも、又た、鵜呑みにせよと云ふでない。
 先づ「疑つて讀む」こと、疑ふことから審神が始まる、てふ、九段塾御主人の御忠告を同志と共に活かしたく思ふものである。
 思想は良い惡いだけではない。取捨の選擇もあるのだ。良い、とか、惡い、とか既出の思想や思考を評論するだけでは、もう何うにもならぬ。そろゝゝ日本人は自身の力で考へを發展させてゆく必要がある。
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by sousiu | 2012-09-14 15:07 | 良書紹介

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