閑話休題。 

 『帝室論』考も途中のまゝで、又たしても無沙汰してしまつた。
 言ひ譯すれば、伊勢、紀伊へと出掛けたり、「不二」「芳論新報」「防共新聞」の原稿を執筆したり、封筒つくりを行なつたり(苦笑)と、何かとせはしき日々が續いた爲めだ。

 さて。日本政府の腑甲斐なさにもほとほとあきれ返るばかりであるが、その分同時に、輿論も愼重にならなければならないと思ふのである。

 固より他國による領土領海の侵犯を閑却してはならぬこと云ふまでもない。
 はからずも日本はこの一年半に於て、二つの招かざる客を水平線より迎へた。そは云ふまでもなく、津波と支韓だ。
 日本は島國だ。林子平翁の古書を繙くまでもなく、日本は海防を徹底せねばならぬのである。

 ところで國難には、小難、中難、大難とがある。歴史的にみても、これらの小中大國難はみな、海の彼方より襲來した。蒙古然り。彼理然り。勢力と暴力と武力を恃み彼れらは訪問した。又た一方では、佛教、耶蘇教らの邪教然り。自由主義、共産主義然り。これらは救濟と甘言を用ひた信仰及び思想と云ふ名の好ましからぬ訪問者であつた。小中大の別こそあれども、いづれも彼れらは期せずして國難を惹起した。
 
 だが日本人が最も恐れる可きは、最大難だ。
 古今、最大國難はいつも國内より出來してゐる。
 我々が眞に恐るゝ可きは、蘇我父子。足利逆臣一族。或は弓削道鏡の出現である。
 高杉東行先生の曰く、『國を滅ぼすは外患にあらず内憂にあり』と。極言せば、野生は、長門に襲來せる十四萬蒙古より、神州の結界の内にあるたつた一人の道鏡や尊氏を恐れるのである。

 今日澎湃するこの輿論を無條件に歡迎せば、やがて行き着く可くして行き着く先は軍備の確立だ。
 この點に就て野生は竊かに危惧するところありとする。
 皇軍の再誕ならぬ、民選にて決定されたる一部の臣民が、昔で云ふところの兵權を握ることに、危惧しないわけにはゆくまい。況んやこゝまで 皇國の面目を貶しめ、未だ自省なき痴漢どもに委ねるに於てをや。地盤・鞄・看板を不屆きにも三種の器と信じてやまぬ爲政者なぞ、一體何の偉人ぞ。何の見識者ぞ。誰れかある、現内閣が近代の室町幕府にならぬの保障を。


 支那韓國を罵倒するのは簡單だ。手輕だ。
 しかし今日の苛立ちの原因は、對手國が強大なるがゆゑに在らずして、我れが惰弱に過ぎるからである。惰弱から再生する道は、罵倒の連呼ではない。抑も何を以て惰弱といふか。それ、軍備的國防無きが爲め丈ではなく、肝心要たる思想的國防無きが爲めである。延いては皇國の民たる誇りも責任も、自覺も無きが爲めに、かゝる問題は現出したことを識る可し矣。
 野生は軍備再建に反對の聲を擧げるものではない。されど軍事的國防を裏付ける思想的國防を疎かにしてはならぬと云ふ。萬全なる國防體制を欲せばそれ、思想と沒交渉であつてはならない。然もその思想が、他國からの借り物であつてはいけない。
 然るに刻下は、警鐘を亂打する中にあつて警笛を吹かねばならぬほど、愼重に愼重を持する秋だと思ふのである。

 毎度とまでは云はぬが、惡意こそなからうけれども、凡そ最大國難へ誘導してしまふ擔當者は君側の奸や、現代的に云へば保守と呼ばれる徒だ(所謂る「行動する保守」なる者は果たして本當に保守なのだか何だか野生にはわからん)。
 我々は今日の外敵を抑止する爲め、未來の内敵を製造してはならぬ。外敵の訪問を抑止しつゝ、内敵の出現も抑止するやうでなければならぬ。
 目前の小國難を囘避せんが爲め、卅年乃至五十年後の最大國難を誘發してしまふ、そのやうな過去の復轍を踏まぬやう、我れらは腰を据ゑて、皇國なんたるものか、その眞相に就て、幾度も復習することを要す可き秋である。
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by sousiu | 2012-10-06 20:36 | 日々所感

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