大橋訥菴先生に學ぶ。三  『責難録』 一 

 訥菴先生の著書は『闢邪小言』『元寇紀略』が有名だ。
 『闢邪小言』は徹頭徹尾、西洋模倣を戒めてゐる。これを以て、訥菴先生を評するに、良く云へば一本氣、惡く云へば狹見と看做す者があり。かくなる論文を一讀したことがあるが、そは訥菴先生を理解せざる者の表層的な愚見である。
 訥菴先生は決して淺識蒙昧なる今日の如き排外思想の持ち主などではない。つまり眞個たるの尊攘家である。
 外憂あつて初めて憂ひとするでなく、事理を能く辨へ、理想の大旆を掲げてゐた。否、言葉を正しくすれば、他國にどうせねばならぬか、に非らずして、皇國どうあらねばならぬか、が主眼であつた。つまり理想を求めるところ内事を主にして外事が即はち從だ。
 つらゝゝ惟みるに、叡慮を奉戴せぬ攘夷運動は、見識に裏付けられた理想や思想に據つて立つたものでなく、單に感情もて構成されたるものと見做されて仕方あるまい。今日の外交に纏る世論の澎湃が純然たる憂國者による警鐘亂打であるのだとすれば、我れらはこれに對する警笛をも吹かねばなるまい。

 話しが外れさうなので、訥菴先生に話題を戻す。
 西洋痛罵の一面のみを以て訥菴先生を解してはならぬ。その爲めにも、訥菴先生の他の著述を拜讀する必要があるのだ。

 そこで今日は、『責難録』を掲げる。
 『責難録』は『大橋訥菴先生全集下卷』(昭和十八年七月十日「至文堂」發行)に收められる。
 一言、説明を付せば、この書は舊來の諸傳に「元寇紀略責難録」と竝び記されてゐたものゝ、どこをどのやうに散失したか、長く世人の目に觸れることが無かつたらしい。その折、平泉澄先生が、とある書店より入手され、同卷に收録され、再び吾人は拜讀する機を得たのである。全集編者である寺田剛氏は、訥菴先生が當時、宇都宮藩主・戸田忠温に聘せられ同藩に道を説いたが、幼君(忠恕)に對しても、將來藩主となる際の心得としておそらく之を述したのではあるまいか、と。
 汚濁した川を澄まさむと欲すれば先づ川上から清めてゆく可し矣。組織然り。國然り。而、清める爲めに必要なるものは、罵聲に非ず、確かな見識だ。

●大橋訥菴先生、『責難録』前編卷之一に曰く、
○『人君たる者は、何事を閣(さしをき)ても、先づ第一著に、自己は位に即くと其まゝ、重き役人なるぞと云ふことを、能く々ゝ理會し玉ふべし。後世の人君は、家老用人以下の者のみを役人なりと思はれて、自己はそれよりも重き役人なることを知り玉はず。或は偶々上よりして、土木の助役、城門の警衞、失火の防禦の類を命ぜらるれば、其事のみを役義なりと思はれて、平生の重き役義に心づき玉はざるは、甚しき誤りなり』と。

 この場合の人君とは、藩主を差したもの。
 藩主、藩主となるを以て極めて重要なる任務を負ふ可きなるに、概ねその重責は家臣に有り我に無し、と誤認するのことを指摘す。
 固より 皇國では、殿樣も又た役人の一に過ぎず。今日でこそこれを識るに難しからざるも、おそれおほくも將軍ありて天子あるを知らぬこの時代下に於ける、訥菴先生の識見、さすがと云ふほかなし。


『然らば人君の役義と云ふは、果して如何なる事ぞと云ふに、別に珍らしきこともなく、能く其國を治めて、萬民を撫で安んじ、一夫にも其所を失はざらしむるが、人君第一の當職なるゆゑ、手近く言へば、人君は民を養ひ育つべき所の、世話役と云ふ者なり

 藩主原來の職務を云ふ。


『既に萬民の世話役なれば、平生、治國安民の四字を思ひつめて、頃刻の間も忘れ玉ふべからず。故に其國貧困して、民に生業を失ふ者のあるは、其民の罪には非ずして、即ち其國君の不調法と云ふ者なり。風俗華麗奢侈にして、遊民の徒の多くあるも、亦是れ其君の不調法と云ふ者なり。凶年饑歳の變に遇て、民に凍餓する者多く、離散する者あるに至るも、亦是れ其君の不調法と云ふ者なり。其他封内に爭鬪(いさかひ)多くして、訴訟の類の絶ゑざるも、盜賊追剥數々起りて、人を惱ます事のあるも、法度禁令を犯し破りて、刑に罹(かゝ)る者の夥しきも、皆是れ國家に君たる者、自己の役義を打忘れて、粗畧(なけやり)にせらるゝが故にてあれば、其罪輕きことならんや。こは畢竟、國をも民をも、自己の物と思はるゝより、さる誤りも生ずることにて、國も民も、人君自己の物には非ず。上よりして能く其國を治めよ、能く其民を安んぜよとて、預け玉へる所の物にて、上より預け玉へるは、即ち天より預かり玉へるなり

 政治の根本義は治國安民の四字であるを云ふ。然らば藩の主はその筆頭責任者であり、この四字を委託された最も責任ある役人と云ふも可なり。擴大すれば、征夷大將軍然り。彼れは最もその責務を擔ふべき一役人なり。
 これを説明せんに、訥菴先生は例を以てして以下に説く。


『今日士大夫たらん者、君より重き寶器を預かり、そを我が私の物と思ひて、輕々しく玩弄し、遂に打碎きたらんには、其罪輕き事にはあるまじ。然らば天よりして重き國民を預りながら、そを世話すべき筈の役義を忘れ、己れが私の事に虐使して、民に安居することを得ざらしめ、或は其膏血を絞り取て、我が奢侈榮耀の費用(ものいり)に充るは、主君より預かり置たる、寶器を我まゝに玩弄して、打碎く者にも遙に過ぎたり。豈、天の冥罰なきことを得んや

 これに就て説明は無用であらう。例を以て、その責務を一層、解り易くしたものだ。編者の、同書が幼君を教育せむが爲め、といふのも頷ける。


『~略~、されども人にも智愚強弱の不同ありて、そを治る者なき時は、動もすれば爭奪して、相害する事あるを以て、扠こそ天より天下を以て、天子、將軍に預け玉ひ、其世話方を命ぜらる。然るに廣き國土のことゆゑ、其行き屆き難きを恐れて、そを又、羣候百辟に分ち、一國一郡を預け玉へる也。されば人君たる者は、天の寵愛せらるゝ所の、民を多く預り居て、天の代官を努るなれば、天地生々の心を心となし、仁を以て主となして、遍く恩澤を下に屆かせ、下情を上に達せしめて、一夫も其所を得ざることを、日夜に憂思せられんこそ本務を知れる君と云ふべく、必ず天の愛顧を受て、長く國家を保たるべきなり

 これは前言をより一層詳しく述べたもの。くどいやうだが、當時の、水も漏すまじと徹底とした幕府專制政治體制下にあつての眼識であり意見であることを忘れてはならぬ。


『苟も然ること能はずして、封内を我が私の物と思ひ、民を虐げ苦しめて、其生産を失はせ、日々に困窮に趨(をもむか)しめば、天の委任に背ける者ゆゑ、天必ず憎み怒りて、やがて其役義を取り上げ、他人に附屬せられんこと、亦是れ必然の理に非ずや。深く思ふて、本務を勵み玉はずんばあるべからず』

 幕府の、主に農民に對する酷政は過度を極めた。「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る」といふ言葉を耳にしたことがあらうと思ふ。
 無論、全ての藩ではない。しかしあからさまなる階級制度は機能し、然も士農工商とは云ひながら、それは名義のとほり機能するものでは無かつた。これに加へるに、饑饉や天變地災が起こる。これに就ても別の機會で記したく思ふが、心ない藩主は少なからず居たのである。

 『責難録』は啻に宇都宮藩主にのみ一讀せらる可き書ではない。
 幕府、いやさ古今に通じて爲政者の熟讀す可き一書である。
 餘談であるが、訥菴先生は單なる書齋的學問では滿足せず、屡々時務を建白し、上書した。
 文久元年九月、遂に幕府に到底望む可からざるを察し、愈々朝權復古の大策を持し、門人・椋木八太郎を上京せしめ、議奏正親町三條實愛公に就て、『政權恢復祕策』を上奏せしめた。その意見書に曰く、
『~上略~、そは前にも申すが如く、徳川家の武威衰へはてゝ、天下の人心全く離れ、僅かに祖宗の餘澤を恃みて、諸侯を指揮する迄なれば、一日一日に元氣憊(つか)れ、恢復すべき機と云ふ物は、萬中に一つも見えず。されば幕府の滅亡せんこと、決して遠きことにてはなく、近く十年の間にあらんこと、鏡にかけて明白なれば、誠に危殆の至りと云ふべし。~以下略~』と。

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 これより半年を待たずして所謂る「坂下門外義擧」は發生し、一年後には訥菴先生、逝いた。而して、訥菴先生の十年以内に幕府は滅亡する、とした大膽な豫言は、その實際に於て七年の後に的中したのである。

 おやすみなさい。
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by sousiu | 2013-02-07 01:56 | 先人顯彰

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